心穏やかに生きる
自分基準でもいい
人はなぜ人になったか、人はなぜ生き続けるのか、人の根源的な欲求は何か、人はどのように生きなければならないのか、善く生きるとはどういうことか、私はなぜここにいるのか、そしてなぜ今私はここで死んでいくのか、いろいろなことを考えてきた。今も前ほどではないが考えている。前の4つの問いへの答えは、今私たちがあるのは、個体保存の欲求、種保存の欲求、協働の欲求を持ち続けてきた結果である、ということと、今私たちがあるのは、結果であり意図してこうなったわけでもなくあらかじめ決められた道筋があってこうなったわけではないというのが、今の私の答えである。

次の善く生きるとはどういうことか、ということへの答えは私にはない。私はなぜここにいるのかという問いには、答える必要がない。誰もそんな問いには答えられない。たまたま、両親のもとに生まれただけだ。そしてなぜ今ここで死んでいくのか、という問いもあまり考えるのに意味があるようには思えない。いつ死ぬかは、私自身では決められない。平均余命の大きな分布の中のほんの一サンプルにすぎない。分布の平均くらいまでは、生きて行きたかったがたまたま、生命の長さの短いほうだっただけだ。

今、私には、これまでゆっくりと考えられなかったことを考える時間がある。私は、社会的にはほとんど孤島のような存在だから、誰かと議論したり、考えたことを誰かに伝えたりはできない。答えは、多くの人が納得し、賛同したものだというものではない。何が、答えの基準かと言うと、自分の残り少ない日々を心穏やかに暮らして行けるかどうかということだ。だから、答えは、全く私的なものでこれで納得でき心穏やかになれると思ったら、それ以上考えを進めない。答えの基準と考えの停止の基準が全く私の内にあるというのが、いいかげんな点だ。いいかげんでも、これからも疑問に思ったことを考えて行く。そして、ちょっとだけ人に言いたくてここに書き込んでいく。
(2010.12.28)

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