日本/歴史・・原始・古代史年表
2011年10月25日
日本原始・古代史年表
(「日本全史 ジャパン・クロニック」 講談社 より抜書き・調整)
赤字:祭礼儀式に関するもの

B.C.12000
  〜8000年頃 氷河時代終わる せまられる生活様式の大変革
           ・地球温暖化で、落葉広葉樹の森林形成されどんぐりが新しい食料源に、また、森林にすむ中小動物、鳥が狩猟対象になった。海進が進行し、日本列島が大陸から切り離され、魚介類が重要な食料となった。
B.C.10000年頃 土器の使用が始まる 煮炊きで進歩する食生活
           ・泉福寺洞窟(佐世保市)の「豆粒文(とうりゅうもん)土器・隆起線文(りゅうきせんもん)土器」:煮炊きで食料の種類が増加し、食生活が安定化した。煮物料理は栄養価が高く、死亡率が低下した。生活のゆとりが、新しい文化を育む原動力となってゆく。
B.C.10000年頃 小石に彫られたビーナス像 縄文時代最古の人形(ひとがた)
           ・上黒岩岩陰(愛媛県美川村):長い髪を左右に分けて長い髪を垂らした女性像など。住民は投槍の有舌尖頭器を使って、シカ、イノシシ、ツキノワグマ、オオカミなどを狩猟する勇猛な狩人。
B.C.9000年頃 槍から弓矢へ 狩猟技術の大革新が起こる

B.C.7000年頃 竪穴住居が全国へ普及 大規模なムラが出現
           ・武蔵台遺跡(東京):十数棟の竪穴住居と中央に広場。土器作りは女、狩猟は男たちの仕事。移動生活は影をひそめ、狩猟、採集、漁労のバランスの取れた定住的な生活。
B.C.7000年頃 祈りをこめて 関東で土偶作り始まる
           ・花輪台貝塚(茨城):川の合流地点の丘陵上。彼らの心の中の聖なるものの姿を女性像に託して表現。
B.C.6800年頃 丸木舟で外洋に漕ぎ出す縄文人 伊豆諸島への進出本格化
           ・伊豆大島の下高洞(しもたかぼら)遺跡:島に生息しないイノシシを運搬し、飼育している。
B.C.6400年頃 瀬戸内海の誕生 貝塚文化が開花する
B.C.3700年頃 縄文海進最高潮に 貝塚文化がさらに進展
B.C.3300年頃 朝鮮半島と九州で 人と技術の交流活発化
           ・曽畑(そばた)貝塚(熊本):朝鮮半島から移入された滑石粉末を土器に混入する手法で、土器は独特の光沢、織感を持つ。朝鮮半島、九州の間で黒曜石などの物資の交流あった。
B.C.3000年頃 八ヶ岳山麓に 巨大な環状集石が出現 祖霊を祀る聖域か
          ・阿久(あきゅう)遺跡(長野)
B.C.2600年頃 姫川河口の宝石工房 全国各地へ出荷
          ・長者ヶ原遺跡(新潟):装身具である硬玉製品を大量に作るムラ。
B.C.2600年頃 作られ壊される土偶 中部、関東で流行
          ・釈迦堂遺跡(山梨):1000体以上の土偶が出土したが、すべてばらばらの破片で完全なままの土偶は一つもない。土偶は、生命力や生産力の象徴であり、人々はその聖なる蘇りの力にすがって、あらゆるものの再生と多産・豊穣を祈願する。祭りのクライマックスで、土偶は司祭の手でばらばらにされる。司祭をそれをムラのあちこちにばら撒く。人々の中には、その破片を持ち帰るものもいた。生命力の根源である土偶には、壊されてもなお、その破片にさえあらゆるものを甦らせる聖なる力が宿っている、と信じられていた。
B.C.2500年頃 男性を象徴する石棒の祭祀 東日本に広まる
          ・縄文人の精神文化が著しく発揚してきた。東日本を中心とする土偶と石棒に象徴される呪術的な道具の発達はその現れであり、この時期に縄文世界を支える祭祀の確立がうかがえる。二つ塚遺跡(富山)、堂の上(どうのそら)遺跡(岐阜)。

B.C.2300年頃 赤城山麓に 大規模な環状集落が出現
          ・三原田(みはらだ)遺跡(長野):直径130m、中央に80mの広場。10件以上の竪穴住居があり、人口推定50人。食料は、クリ、クルミなどの木の実、川を遡上するサケなど。定住型のムラだが、周辺に薪がなくなると移動し、回復するとまた戻ってくる。
B.C.1800年頃 大甕に葬られた死者 再生を願う生者の祈りか
          ・薬師前遺跡(青森):土器に遺体を納めたのは、土器を母の胎内にみたてて、死者のすみやかな再生を願ったのだろうか。
B.C.1800年頃 隔絶された死者のムラ 大湯(秋田)のストーン・サークル
          ・台地上の共同墓地。石を並べた墓が外側は直径45m、内側は16mの円形に並んでいる。これまで、墓はムラの中央広場にあり、死者の空間と生者の空間が一体であったが、ここにきて両者は隔絶された世界になった。生者はやがて死者になり、死者のムラであらたな生活がはじまると考えられた。
B.C.1700年頃 仮面をつけて舞う 山間のムラのシャーマン
          ・仏並遺跡(大阪)、蒔前台遺跡(岩手)で土製仮面出土。B.C.1000年ごろになると仮面は小型化し、やがて農耕文明の始まりとともにその姿を消してゆく。
B.C.1700年頃 ハート形土偶やミミズク土偶が出現 神と精霊の姿をイメージ
          ・郷原遺跡(群馬)
B.C.1500年頃 狩猟の成功を祈る 祭壇にはイノシシ親子の土偶
          ・立石遺跡(岩手):狩の成功を祈願し、狩の後では収穫があったことを神に感謝し、殺した動物の再生を祈る。土製品のほかに、イノシシの子が生贄に使われることが多かった。
B.C.1500年頃 若き呪術師の死 抜き取られた肋骨のなぞ
          ・山鹿(やまが)貝塚(福岡):彼女の体の一部を持つことで、彼女の霊力の一部を継承しようとしたのか、死者が悪霊となってよみがえることをおそれたのか。
B.C.700年頃 縄文文化の粋、亀ヶ岡文化 東北に花開く
          ・是川(これかわ)遺跡(青森)
B.C.900年頃 ムラの中心に巨大なウッド・サークル 信仰と儀礼のシンボルか
          ・チカモリ遺跡(石川):北陸だけに見られる。迫りくる農耕文化に抵抗する縄文人の、信仰と儀礼のシンボルだったのだろうか。
B.C.750年頃 縄文の世界観揺らぐ 第2の道具で新勢力に対抗
          ・御経塚(おきょうづか)遺跡(石川):このころ、縄文世界観を揺るがす大陸からの農耕文化が西日本を席巻し、東日本に迫っていた。縄文世界観の中で生きようとする彼らは第2の道具(生活用具ではなく、彼らの世界観をあらわす道具)を作ることで狩猟採集社会を認識し、新勢力に対抗した。

B.C.350年頃 稲作技術が列島に上陸 採集経済から生産経済へ
          ・唐津湾沿岸地域は、博多湾沿岸地域とともに、弥生文化の先進地域として重要な地位を占めていく。
B.C.300年頃 巨石を用いた大陸系の支石墓 九州西部に広がる
          ・里田原(さとたばる)遺跡(長崎)
B.C.200年頃 朝鮮系の無紋土器 青銅器とともに伝播 九州から関西に普及
          ・諸岡遺跡(福岡):青銅器の鋳造技術をもった渡来人と交流の深い村
B.C.200年頃 副葬品に青銅の剣や鏡 弥生社会に統治組織が成長
          ・吉武高木遺跡(福岡):稲作の到来と相前後して、日本列島に青銅器と鉄器がほぼ同時に流入した。金属器の国内での生産が開始されると、社会的な分業を生み広い地域に及ぶ交易体制が確立し、社会を飛躍的に発展させる原動力となった。それは、列島の芽生えた統治組織の成長との相互作用であった。
B.C.200年頃 大陸系の呪術世界が普及し、卜骨(ぼつこつ)が出現する(古浦遺跡:鳥取)
B.C.200年頃 青銅器武器類の国産化が始まる(姉遺跡、惣座遺跡:佐賀)
B.C.200年頃 銅鐸の鋳造始まる(鶏冠井(かいで)遺跡:京都)
B.C.100年頃 剣・戈(か)・矛などの青銅器の生産が盛んになる(岡本4丁目遺跡:福岡)
B.C.100年頃 鉄製工具が普及し、一部で製作が開始される(下稗田(しもひだ)遺跡:福岡)
B.C.100年頃 銅鐸の鋳造が開始される(安永田遺跡:佐賀)

紀元前後   倭は、100余国に分かれ、一部が楽浪郡に朝貢する
50年ごろ   吉野ヶ里に一大勘合集落 動乱物語る軍事施設
          ・吉野ヶ里遺跡(佐賀):約2000基あまりの甕棺墓が整然と並んでいる。人骨には頭のないもの、足の骨が折れているもの、19本以上の矢が射こまれたものなどがある。激しい戦闘があったのだろう。
50年頃    近畿では方形周溝墓が流行 家族墓としての性格も

57       奴国王が後漢に使節 光武帝から金印を賜る
100年頃 弥生人のタイムカプセル 甕棺墓、九州で盛ん
       ・立岩丘陵(福岡):副葬品に中国の前漢鏡や、南海諸島産のゴホウラ製貝輪など豪華なものが多数。甕棺埋葬儀礼は本州に伝わらなかった。
100年頃 東日本には再葬墓が普及 遺骨を壺にに収納
       ・出流原(いずるはら)遺跡(栃木):伝統的な縄文社会から弥生社会に移行するさまを示している。
100年頃 青銅器鋳造センターできる あらたな時代になう企業基地に
       ・東奈良遺跡(大阪):
100年頃 九州北部に王墓出現 都市国家的な小国分立
       ・桜馬場遺跡(佐賀):隔絶された階級差の王墓からは、豪華な副葬品(竜雲文縁方格規矩四神鏡、素文縁方格規矩渦文鏡など)。

100年頃 銅剣と銅鐸・銅矛を土中に埋納 村の統合で祭器は不要に?
       ・剣、矛、銅鐸などの祭器を用いた祭りは、豊穣への祈りであり、氏族繁栄への祈りであった。やがて、祭器は地上での役目を終え地中に埋められ、しだいにその存在を忘れ去られていった。こうした忘却こそが、新たな時代の幕開けを意味していたのである。こうした青銅の祭器のうち、1ヶ所に集められて埋納さRた複数の銅鐸については、それが村々の統合を意味し、大きな政治的集団が成立した証とする見方が有力になっている。村人共有の神をまつる祭器は、もはや必要でなくなったのだろう。それは、個人を神格化させる社会体制の誕生を意味する現象といえるかもしれない。

107    面土国の国王師升、奴隷160人を後漢 安帝に献上
200年頃 近畿式銅鐸、三遠式銅鐸がさかんに作られ各地に運ばれる。
200年頃 銅矛・銅剣・銅鐸の青銅製祭器の分布圏が確立する。
200年頃 鹿の骨で吉凶 骨卜の風習はやる 大陸より伝播か
       ・毘沙門洞穴(神奈川):弥生時代に始まるこの風習は、徐々にかたちを変え、古墳時代、奈良時代をへて、一部は現代まで受け継がれている。

247    卑弥呼が魏に使い 魏は対狗奴国戦争を支援を表明
248頃  卑弥呼が没する。内乱の後、宗女台予(とよ)が女王となる。
250年頃 土を盛った巨大な墳丘墓出現 権力者の墓の大型化進む
       ・楯築(たてつき)遺跡(岡山):径約40〜53mの円形の丘に両側に伸びる突出部を持つ。最大80mにもなる。木管の下には、30kgを超す水銀朱が敷かれていた。
250年頃 水銀朱の生産さかん 生命の色、赤を遺骸や棺に塗布
       ・若杉山遺跡(徳島)
250年頃 銅鐸が埋納され、青銅祭祀が終わる(小篠原遺跡:滋賀)
300年頃 大和盆地に人造の小山が出現 前方後円墳の築造はじまる
       ・箸中山(はしなかやま)古墳(奈良)
300年頃 瀬戸内にも、畿内と画一性の強い前方後円墳が広まる。九州北部・関東にも。三角神獣鏡の副葬も。

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