日本/歴史・・7世紀の東アジア年表
2012年06月29日
7世紀の東アジア年表

589          隋が中国諸王朝を統一
589         百済、隋に遣使、冊封受ける
591         高句麗、隋に遣使、冊封受ける
593       4月 聖徳太子 女帝のもと国政の要に(蘇我馬子と協力)
594         新羅、隋に遣使、冊封受ける
600         第1次遣隋使
602〜642      新羅、百済に侵攻、戦争状態に
601(推古9) 2月 聖徳太子 斑鳩宮の造営開始 隋との外交に意欲
602(推古10)2月 新羅遠征軍陣容決まる 将軍には来目皇子、兄太子の推薦
            (加羅(任那)諸国の新羅支配からの切り離しが目的)
602     10月 百済の僧観勒(かんろく)が来日 発展が期待される仏教界
            (百済・日本の新羅挟撃作戦の百済の代償として)
603(推古11)12月 冠位十二階を定める 官人の序列を冠の色で表す
             (中国北宋に倣 中国に次ぐ第2の帝国の地位を、
              朝鮮3国に積極的に示す意図)
604(推古12)4月 「国に二君なく、民に両主なし」
             憲法一七条草案が発表される
607(推古15)7月 小野妹子らが第2次遣隋使に 仏教と礼制の摂取が目的
             (国書「日出づる処」で、第2の帝国認めさせるため)
610(推古18)3月 高句麗の僧曇徴が来日 彩色の法伝える 生活面も朗報
             (隋との戦争目前の高句麗が日本に軍事援助求めた代償)
612        隋、第1次高句麗遠征 薩水の戦い
618(推古26)5月  隋の煬帝、クーデターに倒れる 唐が大帝国建設
            豪族集団から貴族政治への脱却過程、中華帝国=冊封、驥尾政策)
620(推古28)   アメとクニの歴史を総括 「天皇記」「国記」完成間近
             (大王の始祖が住む高天原を示す「天(アメ)」と、その始祖が
             天降って支配者となった国(クニ)」という世界観、中国の暦で
             初代イワレヒコ大王(神武天皇)の即位年を確定する試み)
623(推古31)   蘇我馬子 唐につぐ大帝国をめざし新羅遠征軍を派遣
             (加羅からの貢納は、わが国の朝鮮半島における大国的地位の保証
              加羅の領有を新羅にするか、百済にするかで激論)
623〜636      百済、新羅間で8回の戦争
624         高句麗、百済、新羅は唐の冊封受ける
630(舒明2) 8月 初めて遣唐使を派遣する 唐と結び新羅を牽制
630           難波津の外交施設 三韓の館を大修理
630        唐、東突厥服属させる
631〜676     唐、高句麗侵攻=「遼東の役」
631頃       高句麗の長城(遼東東北から渤海湾にいたる)築造開始、647竣工
635        唐、吐谷渾服属させる
640        唐、高昌服属させる
          高句麗、唐に初めて朝貢
641      1月 百済、義慈王即位、唐の冊封受ける
          (佐平集団の合議制から、王ー王妃の独裁的権力集中)
642      7〜8月 百済、新羅西部に侵攻。伽耶の大耶城占領。高句麗とは和親。新羅の唐入貢路を遮断
642     10月 高句麗、泉蓋蘇文の政変    
          (古い王権の貴族・豪族層による伝統的な族制的性格を打破、
           軍事・外交策の統一を図り未曾有の外圧に対処しようとした)
          高句麗、新羅の金春秋の救援要請拒否
          (新羅内部では、唐依存派と親唐自立派が政治主導権を争う) 
643(皇極2) 6月 高句麗より対中国強硬派(泉蓋蘇文)のクーデターの知らせ、倭に届く
           倭では親百済派(=親高句麗派)と親新羅派(=親唐派)の抗争激化
           東アジアの動乱に迫られる対応
643        吐蕃、統一国家形成。唐の冊封受け、制度学び軍事国家体制充実
       9月  新羅、唐に救援要請、王の交代を要請され内紛生じる    
643     11月 蘇我入鹿、山背大兄王を襲う
644?    4月  百済の夫余豊、倭の朝廷に到着、実質は「人質」であった。
          (倭の親百済政策の維持と協力が狙い、百済からも頻繁に使節来る)
          (百済王と称して下位に見なし、倭政権内部で「小帝国」意識形成の端緒)
644     9月  新羅、百済侵略
644     1月  唐、高句麗遠征 645、647、648と続く
645(大化1) 6月 大臣蘇我入鹿を殺す 中大兄らのクーデターが成功
646         改新の詔、宣する
           (官制改革は、従前の族制的・大夫層合議制で古さを残しながらも、冠位制の
            改定などで官人の国家的機構の中での整除的位置づけなどの旧体制克服のさきがけとなった)
       9月  倭、新羅へ高向玄理を派遣
           (百済、新羅二面外交から、親新羅への転換、対唐関係修復の狙い)
647     1月  新羅でピダム・廉宗ら(唐依存派)が善徳女王の退位要求して反乱、失敗。
647        新羅の金春秋(親唐自立派)、高向玄理を送って倭へ。倭の外交政策探索。
           13階の冠位制
648     閏12月 新羅の金春秋、子の分王と共に入唐。諸制度を学ぶ。
649         新羅、唐の衣冠導入
           19階の冠位制
650         新羅、独自の年号廃し、唐の年号採用
650(白雉1) 2月 瑞祥あらわる白雉が献上され改元する
             (僧旻「この白雉こそ、王の徳治が行われているとき、
             天が祝福して地上に下すという瑞祥にほかならない」)
651        新羅、対倭外交の専門部署、倭典設置など官制改革実施
          新羅、唐追従外交姿勢の一方、倭をも枠内に取り込む新羅中心主義形成
651     12月 新羅使、唐服にて来朝、拒絶         
652(白雉3) 9月 難波に新しい宮、ついに完成 外国使節に恥じない朝堂院
             (宮内に仏堂 儒教の中国とは別に、仏教の世界観でわが国
             独自の天下を構想するため)
653        遣唐使派遣(新羅ルート)
654        新羅、金春秋即位(武列王)権力集中し。親唐路線へ外交政策一元化
          新羅、独自の唐化で国家体制強化
          遣唐使派遣(新羅ルート)
657(斉明3) 7月 盂蘭盆会実施 唐を意識しわが国独自の天下を誇示
          新羅に使節を送り遣唐使の入唐同行を求めるも、拒絶される。
          (新羅、唐・新羅、高句麗・百済への二面外交をする倭に見切り)
658(斉明4) 4月 阿倍比羅夫、水軍を率いて北上 日本海側の支配を拡大
           (律令法は中華思想により異民族支配を前提とする帝国法。
            倭国は称号を受けず自ら異民族を支配する小帝国目指す)
659(斉明5) 7月 第4次遣唐使出発 蝦夷を同行し大国の威容を示すが・・・
          (唐・新羅と百済・高句麗の軍事的衝突目前、
           わが国の立場を唐に釈明)
          (新羅、倭への遣使中止。外交政策転換し、倭との連携断念)
660(斉明6) 7月 唐・新羅軍に攻められ百済ついに滅亡 日本が軍事介入
           (倭の外交政策破綻、親百済・高句麗、親唐・新羅派どちらも多数派
            になれなかった。)
            (百済遺臣が、人質王子の百済召還と軍事援助を要請)
           (「調」と称する先進の文化・文物・技術・制度等の「朝貢」形式による
             輸入・受容は倭の国家体制確立の根拠であった。)
661     8、9月 第1次軍と夫余豊を伴った近衛軍派遣
663(天智2) 3月  全国動員の第2次軍派遣  
        8月白村江で唐・新羅軍と激突!
             日本の軍船400隻が炎上

664(天智3)   北九州緊張!大宰府防備に水城と大野城など構築
            (百済の亡命官人指導で)
          高句麗、倭に支援要請。倭、拒絶。
667        唐、高句麗に侵攻
668     4月  唐驥尾下の百済から遣使
668     9月  高句麗滅亡
668        新羅、倭に遣使。国交回復。
669        遣唐使派遣
         (従来の親百済・高句麗外交路線との決別)
         高句麗遺民の反乱。新羅支援。
671        新羅、唐・百済遺民を破る。唐と新羅、戦争状態に
          (この年の亡命百済人は4、5千人以上との推測あり。※1) 
672(天武1) 3月 百済熊津都督府から、2000人の使節。1700人は兵士。留学生、留学僧などの倭人
        6月 大友(親唐・百済)・大海人(親新羅・非唐)の皇位継承をめぐり 壬申の乱始まる!
            (大海人軍、大友軍破る皇子自殺)
676        新羅三国統一
681(天武9) 3月 天武天皇 国史編纂に意欲、権力の正統性もとめ
             (「帝紀」「上古諸事」)
682(天武11)7月 隼人が来朝し、相撲を披露 律令制が九州南部にも
682      9月 天武天皇、立礼の徹底を命令 中国風儀礼を採用
            (新羅などに対して宗主国の地位を示唆)
690(持統4) 7月 浄御原令の官制スタート 太政大臣に高市皇子
            (律令制国家の基礎固まる)
690      11月 天皇は時をも支配 最初の暦に中国暦を採用
694(持統8) 12月 持統天皇、藤原宮に遷都
             中国にならった本格的都城
698(文武2) 4月 南島に使者を派遣 反抗には武力行使も辞さず
             (屋久島、奄美大島、種子島の朝貢確認、種子島の内国化など)
701(大宝1) 8月 大宝律令が完成
          中央集権的な支配の基礎が固まる

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(参考)
1)講談社 日本全史
2)「日本の古代国家形成とアジア」鈴木靖民 著/吉川弘文館 2011年
  序章 七世紀東アジアの争乱と変革

※1 2)の本文P231/(注8)「日本の誕生」(吉田孝 著 岩波書店 1997)


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