日本/歴史・・朝鮮侵略/壬辰倭乱1
2011年07月01日
朝鮮侵略/壬辰倭乱 6
秀吉の朝鮮侵略と琉球王国

琉球は、秀吉の天下統一、それに続く朝鮮侵略の時期に日本の影響が強くなり、明、日本の2つの国の支配を受けて、王国としての独立性を大きく損なった。そして、家康の江戸幕府成立後、島津の侵略を経て幕藩体制に組み込まれ、王国としての自主性を失ってしまった。


冊封の行われた首里城 御庭(うちなー)

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(琉球の対外政策)

1372年、琉球の中山王察度は明の求めに応じ貢物を納め、2代目の武寧が初めて冊封を受けた。明に朝貢することで琉球国王として認めてもらうことを冊封という。この後、王の交代のたびに明(後に清)から冊封を受けた。明への朝貢は見返りとして、多くの返礼品を得ることができ、また使節団は中国の商人と貿易を行った。琉球商人は、日本、朝鮮、ルソン、シャムなどを相手に東アジアの広い範囲で貿易を行い大きな利益を上げた。明は琉球の宗主国であり、明は琉球を属国としてみていた。


冊封の宴

1588年、秀吉に降伏した島津義久は、琉球に対し秀吉へ服従の使者を出すよう圧力をかけてきた。(資料1)武力による討伐をちらつかせる島津義久の求めに屈して、琉球は秀吉に「天下統一の慶賀」の使者を派遣した。(資料2)このとき、琉球は明と日本の両国から支配を受ける微妙な位置に立たされた。

1591年、島津義久は秀吉の朝鮮侵略の軍役を要求してきた。(資料3)琉球としては、同じ明への朝貢国である朝鮮へ攻め入ろうとする秀吉に兵糧を送ることは、弟(琉球)の兄(朝鮮)への裏切りであり、明討伐を掲げる秀吉への加担は親(明)への裏切りであって、簡単に受け入れられるものではなかった。薩摩の再三の要求と、奄美大島の割譲さえ求めてくる薩摩に対して、薩摩との関係を重視し兵糧半分だけ調達して送り、残りは島津氏から借りて納めた。しかし、この返済をしなかった。小国琉球の苦渋はいかばかりであっただろうか。

秀吉の朝鮮侵略に対し、朝鮮は明へ援軍の派遣をたびたび要請したが、そのころ明は中国北方・寧夏でおきた反乱鎮圧のためすぐには朝鮮へ軍をまわすことが出来なかった。1992年10月ようやく鎮圧され、万暦帝は援軍派遣を11月決定した。(資料4)この勅書には、朝貢国朝鮮の援助のため同じく朝貢国である琉球からも軍役を調達するとある。

秀吉の朝鮮侵略が終わり、琉球はこの戦いのため出来なかった尚寧の明からの冊封を受けるべく明へ要請した。琉球は、戦後も明との関係を重視して、朝貢国となることにより独立王国としての立場を守ろうとした。しかし、対外貿易に積極的で琉球を利用して対明貿易を復活させようとした家康、ならびに関が原の戦いで一時、西軍に加担し信頼回復の必要があった島津の圧力は日増しに大きくなっていった。

琉球は明からの冊封を受けることは出来たが、明は琉球が日本の支配下に入ることを強く懸念していた。(資料5)この後、対明貿易の復活が失敗し、琉球が幕府への使者派遣を拒絶し続けたため、1609年、琉球は薩摩の侵略を受け、尚寧は薩摩につれさられた。あくまで明への朝貢国として独立を保とうとした琉球は、武力により日本の支配に組みこまれることになった。
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(琉球王国 年表)

1372年 中山王察度、明(中国)に入貢。
      (大交易時代、中継貿易で繁栄)
1429年 尚巴志が三山統一、琉球王国成立
1570年 (大交易時代の終焉/ヨーロッパ人、日本・中国人の進出)

1585(天正13)年 秀吉関白に。一柳直末あて書状で「唐国」征服表明
1587(天正15)年 島津義久、秀吉に降伏
1588(天正16)年 島津義久、琉球王尚寧に秀吉への使節派遣督促(資料1)
1589(天正17)年 琉球王尚寧、秀吉に使節派遣(資料2)
1590(天正18)年 秀吉、「唐入り」準備を命ずる
1591(天正19)年 島津義久、琉球王尚寧に七千人の兵糧、十ヶ月分の軍役負担を指示(資料3)
1592(文禄 元)年 4月 加藤清正・黒田長政朝鮮上陸
           11月 明万暦帝が朝鮮援軍派遣決定(資料4)
1598(慶長 3)年 8月 秀吉死去
1604年頃      明・夏子陽と王士禎ら文書:琉球と日本の通商を非難(資料5)

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(資料1)
天正十六年八月十二日付けの琉球中山王充て島津義久書状案 (1588年)

御禧兆万祥々々、そもそも去る年已来、京都いよいよ御静謐、故に東西一国残らず、御下知に偃し、天下一統の御威晃、更に禿筆に覃ばず、既に高麗よりは、御朱印を拝領、やがて出頭の議定に候、唐土・南蛮両州は音使舟渉るの巷説半ばに候、然れば貴邦無礼の段、たびたび仰せ出さるるに依り、堅く申し通い候と雖も、その験なく候、無首尾の成り行き、愚拙に於いて本懐を失うのみ候、天下違背の族、球国に相究まるの間、直ちに武舟を催され、かたがた滅却に属さる地躰に候、琉・薩旧約の謂われ浅からざるの条、諒に休息に堪えず候、やがて裁断を遂げらるるに於いては、ますます康寧の基たるべく候か、仍って扇子百本金、いささかの嘉例までに候、猶大慈寺和尚演説あるべく候、不宣、恐惶謹厳

     天正六年仲秋十二日      修理太夫 義久
  謹上 中山王

「秀吉の軍令と大陸侵攻」中野等 著 吉川弘文館 P18

(すでに日本の国内は残らず関白秀吉の「御下知」に服し、高麗も朱印状を「拝領」して出仕してくることが既定である。「唐土」や「南蛮」もまもなく使節を派遣するようであるが、貴邦、すなわち琉球にかぎっては、たびたび来聘を促しているのもかかわらず、その甲斐もなく「無礼」の状態が続いている。これでは「琉球」こそ、「天下違背の族」と言わざるを得ず、ただちに派兵して追討すべきであるが、長年の薩琉関係を考えるとそれも憚られるので、すみやかに使節派遣の裁断をくだされるように)(本文は、私が著者本文を引用しながらまとめたもので、著者の訳文そのものではない。)

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(資料2)
万暦十七年(天正十七年)仲夏二十有七日付け琉球国王尚寧の書(1589年)

琉球国王尚寧 書を
日本国関白殿下に 奉る

承り聞く、日本六十四州は、下塵に拝望して幕下に帰服す、しかのみならず高麗・南蛮に及びて亦威風を偃ぶと、天下太平、弓を?み、四夷を撫するの謂か、吾れ遠島にして浅陋、小国一礼に及び難しと雖も、島津義久公、大慈寺西院和尚をして、仰せを蒙らしむるの条、天竜桃菴和尚を差わして、明朝の塗り物、当国の土宜、軽薄の進物を別楮に録し、一礼を遂げんとす、恐惶不宣

「秀吉の軍令と大陸侵攻」中野等 著 吉川弘文館 P19

(日本六十四州は関白様の下に服し、さらには高麗、南蛮にも御威光が及ぶとお聞きしています。天下は平らになり、武器を捨て、周囲の夷敵をおさめたとのことですが、私どもは遠島の国土の小さい小国であり挨拶に困難をきたしておりましたが、島津義久公、大慈寺西院和尚により仰せのとおりされるようにとのことでしたので、天竜桃菴和尚を派遣し、明国の塗り物、琉球の産物など持たせ挨拶をいたします。)(訳文は、私のもの。本の著者のものではない。)

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(資料3)
天正十九年十月二十四日付け 琉球国王尚寧充て島津義久書状 (1591年)

関白様、来春入唐の儀に就き、貴国・当邦混じりて一万五千の軍役たるべきの旨、兵庫頭義弘これを承りて下国候、夫れに就き、軍衆等相催され渡海あるべき事、且つは遠島の覊と謂い、且つは扶桑の軍法無案内たるべきの間、軍衆の事私として免除候、然れば即ち、七千人の兵糧十ヶ月の分、まず相償われ、来る二月以前に当国坊津まで着岸せしめ、其れより高麗・唐土にいたり運送あるべき用肝要に候、就中去る拾日より、肥前州名護屋の泊において、関白様旅閣の普請衆、応に右の軍役仰せつけらるべく候、俄の儀に候の条、申し通うべき様これ無く、今に延引候、是又七千人兵粮のほか、金銀穀精の間、緩粗無く馳走あるべく候、次に彼の行の事も、異国に偏洩これ無き様、かたがた御思惟尤もに候、恐々謹言

     小春廿四日    修理太夫義久 (花押)
  謹上 中山王  

「秀吉の軍令と大陸侵攻」中野等 著 吉川弘文館 P28

(関白様が、来春に「唐入り」するについて薩摩・琉球双方で一万五千の兵を出すよう私、義弘が承って帰ってきた。それについて、琉球が軍旅が遠く困難なこと、日本的な軍法に不慣れなことを勘案して、実際の動員は免除するかわりに、七千人の兵糧十ヶ月分を負担し、来る二月以前に薩摩の坊津まで運ぶように。関白様の名護屋城普請に動員されていたため、今まで申し伝えるのが遅くなった。これについても、七千人の兵糧と金銀を遅れることなく手配してほしい。このことは、「異国」には、洩らさぬよう配慮するように。))(本文は、私が著者本文を引用しながらまとめたもので、著者の訳文そのものではない。)

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(資料4)
1592年11月 万暦帝が朝鮮に援軍を送る決定を下し、宣祖に送った勅書

「そなたは長きにわたって我が東方の隣人であり、貴国は常に温順で従順であった。そなたの国の士族たちは、学問と文化に造詣が深い。朕は貴国の領土が野蛮な日本の徒党に侵略され、貴国の首都を奪い、平壌さえも占領され、良民が四方に散り散りになったという知らせを聞き、真に哀れに思う。そして国王が西海岸へと非難し、農家に避難場所を探しているという知らせを聞いた。そちは今後、この当面の問題に注意を傾け、決意を固くせねばならない。朕は昨日この知らせを聞き次第、そなたを助けるための軍隊を募集せよと、辺境の官吏に命じた。朕はまた、文武重臣を集め、貴国の兵と力を合わせて(日本の)徒党を追い払い、彼らを殲滅させるであろう。そればかりでなく、朕は四方天地の朝貢国の王たちにも勅書を下し、今回のことを助けるようすでに措置しておいた。朕はまた、東南の海岸警備隊に命じて、シャムや琉球といった国々にも勅書を送り、日本を撃退し追い払うのに,十万の軍隊を集めてともに参戦することを命じた・・」

「壬辰戦争」鄭杜煕、 鄭杜煕 著、翻訳 金文子, 小幡倫裕 明石書店 P382〜383

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(資料5)
尚寧の封王使として任務を終えてそれぞれ大常寺小卿、光禄寺寺丞の職についていた夏子陽と王士禎らが、琉球国から私貿易の弊害を防ぐための処置を願ったのに答えた文書

「・・・・本寺等、前に貴国にあるの時、適倭舶もまた来たりて貿易す、本寺等厳に禁絶を示し、一人も倭夷と交易するを許さざるは、まさにここに見ることあればなり、貴国あに利あるを知り害あるを知らず。目前を急にして後患を顧みざるべけんや。通商の儀、断じて開くべからず。・・・」

「新しい琉球史像」高良倉吉・豊見山和行・真栄平房昭編 榕樹社 P41
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posted by tamatama at 21:23|   朝鮮侵略/壬辰倭乱 2011年06月16日
朝鮮侵略/壬辰倭乱 5
朝鮮への出兵を決定した秀吉個人の意識(戦いに明け暮れて天下を勝ち取ったことの自負、国際感覚)がどうであったか、秀吉の年表を作って探ってみた。

(年表を作ってみての感想程度のこと)
・本能寺の変まで戦に明け暮れた日々であったが、それは信長に仕える家臣としての立場だった。本能寺の変以降の10年間は、この戦に勝てば天下が一歩一歩近づいてくることを実感しながら自らの判断で必死に戦ったことだろう。そして、それを成し遂げたとき強烈な自負が生まれたに違いない。
・秀吉は、海外との交流が莫大な利益を生むことを、堺の商人の活動や、彼らや宣教師から得た情報で知っていた。戦によって天下を勝ち取ったという自負を持つ秀吉にとっては、明であれ朝鮮であれ今までやってきたように、まず服従を求めそれに従わなければ武力で従わせる、ということになるのは自然の成り行きだった。

・秀吉は、明や、高山国(今の台湾、当時オランダ領)、ルソン(今のフィリピン、当時イスパニア領)へ朝貢を求めるべく使者を派遣したり交渉をしている。どう考えても明や、高山国、ルソンが朝貢に応じるわけがない。秀吉の天下人としての自負と、この大きく間違った国際感覚とが合体したとき武力での服従、成敗となった。
・天下布武の名の下、統一に向かった信長は武力一辺倒でもよかった。しかし、秀吉には、天下平定後の日本を政治的に安定させるビジョンが必要だった。徳川家康に、天下平定後のビジョンがそれほどあったとは思わないが、ますます強くなった軍事的基盤の上に立って、徳川三代のあいだにビジョンを作り、そのビジョンを試行錯誤しながらでも実現していく時間的余裕があった。

・家康も朝鮮出兵の前は、秀吉ほどではないけれど同じような感覚(武力による支配)を少しは持っていたかもしれない。しかし、朝鮮への出兵が失敗に終わったことで、他国を武力によって属国にしようなどとは思わなくなったに違いない。戦後まもなく朝鮮と国交を回復した。
・瀬戸内沿岸、大阪から江戸までの街道筋には、江戸時代の「朝鮮通信使」の痕跡が、宿舎跡、踊り、地名などに残っている。「唐入り」といわれた戦から、まだ50年もたっていないとき当時の人々は朝鮮から来た大勢の一行を見たとき、どのように思っただろうか。
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西暦 元号   秀吉の歩み(下線は、対外関係に関するもの)
       
1537 天文 6 尾張、中村に織田信秀の足軽組頭を勤めた木下弥右衛門と、
        尾張、御器所村に鍛冶屋を営み、武家でもあった
        関弥五郎兼員の娘、なかの子としてまれる。(1歳)
1543     鉄砲、種子島に伝来
1549     キリスト教伝来、ザビエル鹿児島に上陸
1554 天文23 織田信長に仕える。(18歳)
1560     桶狭間の戦い、今川義元を破る
1561 永禄 4 浅野又右衛門長勝養女(実父杉原定利)おねと結婚する。(25歳)
1565 永禄 5 「木下藤吉郎秀吉」として、文書で初出。(坪内文書)
1566 永禄 9 墨俣築城、斉藤竜興(たつおき)の兵を破る(30歳)
1568     信長上洛
1569 永禄12 京都奉行の任につく。但馬、播磨の出兵に参戦する。(33歳)
1570 元亀元 信長、家康と浅井・朝倉を近江姉川に破り、横山城を守備(34歳)
1572 元亀 3 羽柴に改姓
1573 天正元 信長に従い小谷城を攻め、浅井父子を攻め滅ぼす。(37歳)
1574 天正 2 今浜に築城して長浜と改め、筑前守を名乗った。(38歳)
1575 天正 3 信長、家康とともに武田勝頼を三河長篠に破る。
       明智光秀等と一向宗徒を攻め2000余人を切り捨てる。(39歳)
1580 天正 8 別所長治を三本木城に攻め、破った。(44歳)

1582 天正10 (6月)本能寺の変。毛利氏と講和。
       (6月)山城山崎に明智光秀を破った。(山崎の合戦)
       (6月)清洲会議。信長後継を三法師と定め、後見につく。(46歳)
1583 天正11  (4月)賤ケ嶽の戦い。柴田勝家を攻め滅ぼす。
       (9月)大坂城の普請始まる。(47歳)
1584 天正12 (3月)小牧・長久手の戦い 家康、織田信雄と戦い破れる。(48歳)
1585 天正13 (3月)紀州攻め 根来寺衆、雑賀衆は総崩れ
       (4月)高野山武装解除
       (6月)四国の長宗我部元親を降伏させ、四国を平定する。
       (7月)従1位関白に叙任し、姓を藤原と改め、関白拝賀を行った。
       (9月)豊臣姓になる(49歳)
1586 天正14 (2月)聚楽第着工
       (5月)妹(旭姫)を徳川家康の正室にする。
       (10月)家康上洛、大坂城にて秀吉に謁見。
       (11月)徳川家康を関東惣撫事令に任命(50歳)
1587 天正15 (3月)九州島津氏を征伐するため大坂を出陣。
       (6月)バテレン追放令
       (9月)聚楽第に移転(51歳)
1588 天正16 (4月)後陽成天皇聚楽第に行幸
       (5月)大仏造営着工
       (7月)刀狩令・海賊停止令(52歳)
1589 天正17 (5月)側室淀殿、淀城にて鶴松を生み、大坂城に移る。
       (7月)伊達氏討伐
       (8月)対馬の宗義智を朝鮮に派遣し使節派遣を促す。(53歳)
1590 天正18 (3月)小田原城に北条攻め。北条氏滅ぶ。
       (11月)朝鮮通信使、秀吉と会見。帰国報告で兵禍予見。(54歳) 
1591 天正19 (1月)羽柴秀長(秀吉弟)死去
       (閏1)バリニャー二と天正遣欧使節団に会う。
       (2月)利休自害
       (6月)朝鮮国王、「対明和親」の仲介要求を拒絶。
       (7月)インド副王に返書を送り、キリスト教禁止を伝え、貿易求める。
       (8月)身分法令発布、子鶴松死去
       (9月)ルソンに原田孫三郎を派遣し入貢を求める。
       (12月)名護屋城築城開始(55歳)
1592 文禄元 (1月)朝鮮を経て明国へ出兵するための出陣令を出す。
       (4月)文禄の役 第1陣釜山に上陸。
       (6月)名護屋から渡海しようとして、家康、利家らに止められる。
       (8月)大政所(母なか)没す。
       (8月)小西行長、明の沈惟敬の間で休戦の約束する。(56歳)
1593 文禄 2 (7月)和議7か条を明使に提示した。
       (8月)側室淀殿が大坂城で捨丸(のちの秀頼)を生んだ。
       (9月)太閤検地、本格化。(文禄検地)
       (11月)高山国(今の台湾)へ入貢を促す使者派遣した。        
       (11月)島津義弘に工芸、裁縫に秀でた捕虜京都送還を命ず。(57歳)
1594 文禄 3 (6月)琉球、薩摩島津義久による再三の朝鮮の役への兵糧貢納を拒絶。
        (7月)堺商人納屋助左衛門ルソンより帰国、唐傘、茶壷献上。(58歳)
1595 文禄 4 (7月)秀次の左大臣、関白の官職を奪い、切腹を命ずる。(59歳)
1596 慶長 1 (9月)明国使者を大阪城で謁見、講和の真相を知り出兵決定。(60歳)
1597 慶長 2  (2月)慶長の役
       (7月)ルソン国使と大阪城で会い、象を贈られた。
       (9月)鼻塚を京都東山に築き、施餓鬼を行った。(61歳)
1598 慶長 3 (3月)秀頼とともに醍醐寺三宝院に観桜の宴を開く。
       (8月)徳川家康、前田利家等5大老に秀頼を託す。
       (8月)伏見城に没す。(62歳没)
           秀頼後を継ぐ。

1600 慶長 5 関ヶ原の戦い
1603 慶長 8 徳川家康、制夷大将軍になる。(秀吉生きていれば67歳)
1607 慶長12 朝鮮との国交が回復「回答兼刷還使」一行来る。捕虜1400余名帰国。
1614 慶長19 大坂冬の陣
1615 元和元 大坂夏の陣
1616 元和 2 徳川家康死去
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posted by tamatama at 18:40|   朝鮮侵略/壬辰倭乱 2011年06月14日
朝鮮侵略/壬辰倭乱 4
「唐人町」の地名由来の調査

インターネットで「唐人町」、「唐人」を検索し、その地名の由来を調べた。
地名由来には、
A)古代、中世からの国際交流にちなんだもの(唐人は異国人の総称)(11/15)、
B)文禄、慶長の役における朝鮮人捕虜連行との関係が色濃くあるもの(3/15)、
C)江戸時代の朝鮮通信使の往来にちなんだもの(1/15)、
があった。

なるべく「市ホームページ」など公共のものに拠るようにしたが、個人のホームページからの情報も多く正確さにかけるところもある。文章も、インターネットの文章を引用、要約したものが多い。

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1)福岡県福岡市唐人町・・・A
・黒田長政が文禄・慶長の役に出陣している。
・「続風土記」には「其始高麗人住せり」、「拾遭」には『往古 は唐船が泊まりしゆえ、如此名あるよし』など様々な諸説があり、地名の由来を確定するものがない。
・1627(寛永4)年、成立の「筑前筑後、肥前肥後探索書」に記載されているのが初出。関が原以降に黒田藩が福岡城築城後、唐人町は下級武士の町として発展した。

2)長崎県南島原市口之津丙唐人町・・・A
・1562(永禄5)年、大村純忠が横瀬浦を開港したとき口之津を開港した。1582(天正10)年までに7隻のポルトガル貿易船が入港した。

3)佐賀県佐賀市唐人・・・B
・鍋島直茂が文禄・慶長の役に出陣している。
・1591(天正19)年、佐賀藩に召し抱えられた高麗人李宗歓は、秀吉の朝鮮出兵の際通詞訳として同行し、陶工たちを連れ帰る際にも重要な役割を果たした。宗歓は利敵行為をしたため、帰ることが出来ず、佐賀にとどまることになった。藩主鍋島直茂は、1599(慶長4)年、宗歓が連れ帰った高麗人とともに城下に住まわせた。それが唐人町である。鍋島更紗の始祖、九山道清もその一人である。

4)大分県臼杵市臼杵唐人町・・・A
・大友時代の渡来外国商人の居留地に由来している。

5)熊本県熊本市(中・西)唐人町・・・A(B)
・加藤清正が文禄・慶長の役に出陣した。
・朝鮮出兵で連れ帰った人々を住まわせたのは、蔚山町(うるさんまち)である。唐人町には中国人が多く住んでいた。
・文禄の役で清正の捕虜となった朝鮮の重臣李甫鑑(通称金官・・金官とは朝鮮での出納にかかわる役職)は、その後清正に仕え帰国しなかった。「朝鮮人金官墓」の墓碑銘で墓がある。

6)熊本県玉名市伊倉 唐人町・・・A
・伊倉の町には、中世において国際的な津(港)として栄えた丹倍津(にべのつ)があり、中国から貿易船(唐船)が訪れ、唐人が居住して唐人町が形成された。
・「肥後国誌」には、伊倉丹倍津について「往昔此所ハ三韓入貢の津港ニテ入唐の僧俗多クハ此所ヨリ発船セシト云」と述べている。

7)宮崎県日南市飫肥唐人町・・・A
8)宮崎県串間市西方字唐人町・・・A
9)宮崎県都城市 唐人町・・・A
・400年以上前から中国人の一行が南九州の港に渡来し唐人町が形成された。
・何欽吉(かきんきつ)(中国人)は、明末の戦乱を避けて中国の広東省から渡って来た一団の一人で漢方医といわれている。彼らは直後都城の「唐人町」に移住したようである。都城市内に墓がある。

10)愛媛県松山市 唐人町・・・B
・唐人町の町名は町名変更でなくなった。「唐人町郵便局」に名を残している。
・加藤嘉明が、文禄・慶長の役に出陣した。
・加藤嘉明が松山城を築城した際に、連れ帰った朝鮮人を住まわせたことが町のはじまりである。大陸の文明が進んでいたために住まわせたといわれているがひどく待遇が悪く徐々に逃げ帰り町名のみが残った。

〇「連行された朝鮮農民について、つぎのような記録がある。ーー  らんむ(南原)と申所の者、唐人(朝鮮人)夫婦生け捕り候、予州(伊予)へ召し連れ帰人仕り候由、夫婦共予州にて相果て申し候由伝わり候(「高山公実録」所収「大木長右衛門家記」)。ーー南原の戦いのさい、藤堂高虎の家臣大木長右衛門に捕らえられた朝鮮農民の夫婦は伊予へ連行された。この夫婦も農耕を強制されたことだろう。ともに伊予の地で一生を送ったのである。」(「豊臣秀吉の朝鮮侵略」北島万次 吉川弘文館 P261)(藤堂高虎は、伊予宇和島藩。)

11)高知県高知市唐人町・・・B
・長曽我部元親が、文禄・慶長の役に出陣した。
・元親は文禄の役の時に医師経東(きんとん)を連れ帰った。元親は、先祖が渡来系の秦氏でもあり名医である経東を厚く信頼し、秀吉のいる京都へ上る際には常に同伴した。
・慶尚道秋月城主朴好仁(ぱくほいん)は、捕虜として一族10人とともに浦戸城下に住み、「湯薬師朴好仁」の看板を掲げて医師として名を高めた。1601(慶長6)年、山内一豊が土佐に入国後、高知城を築城すると、朴好仁らは城下の唐人町に移った。

12)徳島県吉野川氏鴨島町飯尾(いのお)唐人(かろうと)・・・A
・かって、呉織部(くれはとりべ)を住まわせたところ。

13)愛知県稲沢市横須賀唐人・・・A
・尾張国の国府があったところ。

14)静岡県三島町唐人町・・・C
・1607(慶長12)年、に初めて朝鮮使節が来朝し、将軍に謁見のための江戸往来のとき、使者の宿舎に当てられたことから呼ばれるようになった。

15)神奈川県小田原市浜町3丁目 唐人町 (交差点名)・・・A
・慶長十二年(1607)に来日した朝鮮通信使の記録『慶七松海瑳録』によれば、このとき通信使一行が宿泊した小田原大蓮寺に葉七官という唐人がたずねてきている。葉七官は中国福建の人で、乗船中に遭難して小田原に漂着し、帰国しなかった十余人とともに小田原で生活していたとのことであった。小田原には唐人が住む集落があり、これが江戸期の小田原唐人町の起源となったといわれる。

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思ったより、「文禄・慶長の役」由来のものが少なかった。朝鮮から連れて来られた2万から3万人といわれている人々のうち、江戸期に入って7000人余りが帰国した。残された人々のうち、城下の唐人町に住む人々は、知識人か、技術を持った人々であったようだ。多くは、城下に住むことなく各地で労働力としてその一生を送ったと思われる。

(参考:連行された人々の本国送還の様子が書かれている)「「朝鮮侵略後における被虜人の本国送還について」米谷均 (「壬辰戦争」鄭杜熙・李mc編著 明石書店 所収第4章)

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(11.8.8追記)
〇鹿児島県南さつま市坊津町久志 唐人町・・・A
・久志の博多にあった。
 現在、町名としては残っていない。また 唐人町として特定される区域もない。
・坊津町郷土誌下巻 P866から
「唐人町(とじんまつ)
地名として現在まで残っており、明治の中期まで、博多集落の隣に、唐人町集落としてあったが、現在は博多集落に併合されている。
外国(特に中国)貿易が、もっとも繁く行われた時代に、唐人は、現在の唐人町地区に居住して、貿易に当たっていたが、徳川幕府の鎖国令により、全員引揚げて、唐人町の名前だけが残ったものである。」
・唐人町の呼び方は、とじんまち(らしい)。(久志庁舎のかたに聞いた) 
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posted by tamatama at 14:14|   朝鮮侵略/壬辰倭乱 2011年06月09日
朝鮮侵略/壬辰倭乱 3
韓国高校教科書に、朝鮮侵略/壬辰倭乱がどのように記述されているか見た。

世界の教科書シリーズ(新版)韓国の歴史 国定韓国高等学校歴史教科書 
大槻 健/君島和彦/申奎燮 訳 竃セ石書店 2000年発行

(教科書について)
・戦いの個別の様相について、兵力、装備について劣勢であることを記述しながらも朝鮮軍の勝利の場面を大きく記述している。
・日本軍の撤兵に秀吉の死が大きな要因であったことに全く触れていない。
・この教科書全体が民族意識を高めることを狙いとして書かれていることは理解できるが、(倭乱の影響)のところでの「東アジアの文化的後進国であった日本」との表現には、違和感を覚えた。

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(いろいろ思ったこと)
・朝鮮侵略/壬辰倭乱の軍事的な側面(戦の勝利、敗北)と、秀吉の意図した全体としての側面(狙いの成功、失敗)とをわけて考えなくてはならない。
・朝鮮侵略/壬辰倭乱をひきおこした要因として、当事の日本の状況(戦国乱世が終わったこと、国内統治の仕方がまだ未整備だったこと)と同時に、秀吉個人の意識(戦いに明け暮れて天下を勝ち取ったこと自負、国際感覚)も大きい。
・歴史教育は大事。私は小さい頃、当事読んだ漫画の影響で朝鮮征伐といえば加藤清正の虎退治というイメージがあった。
・「日韓歴史共同研究委員会」の報告の該当する部分を拾い読みした。両国の研究者の意識の差を感じた。さらに、韓国の研究者のほうが、この意識の差に敏感なように見受けられた。
・名称を「壬辰戦争」とする提案がある。いいと思う。

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国定韓国高等学校歴史教科書

倭乱と胡乱

(壬辰倭乱の勃発)
 16世紀に入って社会的混乱がさらに加わり、国防力が次第に弱体化して、中宗の代には三浦倭乱をはじめとして倭寇の騒乱が絶えず生じた。これに対して政府は備辺司を設置し、李珥の10万養兵説の主張もあったが、全般的には積極的な対策は講じられなかった。
 このころ日本では豊臣秀吉によって長期間にわたった戦国時代の混乱が収拾されていた。豊臣は国内政権の安定のために、不平勢力の関心を外に集めると同時に自らの征服欲を満足させるために朝鮮と明に対する侵略を準備した。
 1592年4月、倭軍が侵略を開始した。倭軍が侵略してきて釜山鎮と東?城では鄭撥と宋象賢が奮戦したが、ついに陥落されてしまった。倭軍は三つに分かれて漢陽をめざして北上した。これに対して忠州で申×が背水の陣を布いて戦ったが、武器と戦略の不備で敗れた。(×は石に立つ)
 朝鮮朝廷は倭軍を避けて義州へ避難し、倭軍は漢陽を占領して北上をつづけ、平壌と威鏡道地方まで侵入した。

(水軍の勝利)
陸地では情勢は不利だったが、慶尚道、全羅道の海岸警備を担当した水軍は、倭軍の兵站支援を受け持った日本水軍の侵略を阻止した。
 倭軍の侵入の1年前に、全羅左水使に赴任した李舜臣は、倭軍の侵入に備えて板屋船と亀甲船をつくり、戦艦と武器を整備し、水軍を訓練し、軍糧米を貯蔵した。
 彼は倭軍が釜山に上陸すると、80余隻の船をひきいて玉浦で最初の勝利をおさめた。つづいて、泗川、唐浦、唐項浦等でも大勝した。ついに閑山島の大勝で南海の制海権を掌握し、穀倉地帯の全羅道地方を守り、倭軍の水陸併進作戦を挫折させた。

(義兵の抗争 )
 倭乱が生じると、全国各地で義兵が立って倭軍とたたかった。義兵は郷土の地理に精通し、郷土の条件にあった戦術と武器で倭軍に大きな打撃を与えた。
 郭再祐、趙憲、高敬命、鄭文孚らがひきいる大小の義兵部隊の活躍は大きな成果をおさめた。義兵の輝かしい戦果は、海戦での李舜臣の勝利とともに戦況を変えた。
 戦乱が長期化して倭軍に対する反撃作戦は一層強化されはじめた。すなわち、今まで散発的に立った義兵部隊を整備して官軍に編入することによって、官軍の戦闘能力を大幅に強化、作戦がより組織性を帯びるようになった。

(倭乱の克服 )
 朝鮮政府は、はじめは倭軍の攻勢におされて、宣祖が漢陽を離れて平壌、義州へ避難するなど、守勢を免れることはできなかった。しかし水軍と義兵の勝利で戦況が逆転し、倭軍を撃退するに至った。
 戦争が長期化して朝鮮は明に援軍を要請し、明軍が戦争に参加した。朝・明連合軍は平壌城を回復して倭軍を南に追い出した。このとき権慄は幸州山城で倭軍を大いに打ち破った。
 以後戦争は小康状態に入り、休戦会談が開かれた。しかしおたがいの主張が違って、3年間にわたった会談は決裂し、再び倭軍は侵入してきた。これ対して朝鮮軍と明軍は倭軍が北上するのを稷山で防ぎ、南方へ撃退した。このとき李舜臣は倭軍を鳴梁へ誘導して一大反撃を加え、大勝利をおさめた。
 陸地と海で再び惨敗を喫した倭軍は、次第に戦意を喪失して敗走しはじめた。朝鮮水軍は逃走する倭船数百隻を露梁の沖でさえぎり、最後の一撃を加えた。李舜臣はこの最後の戦闘で壮烈な戦死をとげた。露梁大勝を最後に7年間にわたった戦乱は終わりを告げた。

(倭乱の影響)
 倭乱でわれわれが勝利をおさめることができたのは、わが民族がもっていた潜在的力量がすぐれていたためである。つまり、官軍次元のわが国防能力は日本に劣っていたが、全国民的次元の国防能力は日本を凌駕した。わが民族は身分の貴賤や男女老若を問わず、文化的な優越感に満たされて自発的な戦闘意識をもっていた。こうした精神力が国防能力に作用して倭軍を撃退させることができる力になった。
 一方、倭乱は国内外的に多くの変化をもたらした。まず、国内的には、長い戦争で人口が激減し、農村はたいへん荒廃した。したがって、国家財政の窮乏と食料不足を解決するための対策として空名帳(貧民救済のために富裕者に官位を売り、その代金の証書……訳者)が大量に発給された。また、李夢鶴の乱のような民乱が各地で起こり、土地台帳と戸籍が多く焼失したために、租税、揺役の徴発と身分の区別が混乱した。
 また、国際的には、束アジアの形勢が大きく変化した。朝鮮と明が戦争で疲弊した隙に乗じて北方の女真族が急速に成長した。
 そして東アジアの文化的後進国であった日本は、朝鮮から活字、書籍、絵画、陶磁器などの文化財を略奪し、多くの技術者と学者等を拉致していった。これとともに朝鮮の性理学も伝えられ、日本の文化発展に大きな影響を及ぼした。

(図 壬辰倭乱海戦図)(図 官軍と義兵の活動) (図 大砲口)
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posted by tamatama at 12:45|   朝鮮侵略/壬辰倭乱 2011年06月08日
朝鮮侵略/壬辰倭乱 2
秀吉の朝鮮侵略について、高校教科書でどのように記述されているか見た。

詳解日本史B 三省堂 (1994(平成6)年3月31日文部省検定済)
 ・集英社版 日本の歴史の記述の大要をほぼ把握できる記述になっている。
 ・朝鮮侵略の背景、要因、実相、影響が読み取れる書き方になっている。 
改定日本史 東京書籍 (平成4年3月31日 改定検定済)
 ・侵略を出兵と表現している。
 ・文章量の制限から情報量が少なく、リアルに歴史的な事実が伝わってこない。

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詳解日本史B 三省堂 (1994(平成6)年3月31日文部省検定済)

(秀吉の外交と朝鮮侵略)
 また、秀吉は、関白就任の直後から明の征服を考えるようになった。九州を平定すると、対馬の宗氏を通じて、朝鮮に対し日本への服属と明への先導を求めた。ところがこの要求が明に正確に伝えられず使節を送ってきたため、秀吉は服属したものと思い込み明侵略の計画を進めた。大名を際限なく軍役にかりたてることで権力を集中し、統一事業を進めてきた秀吉はこうして侵略に突き進んでいった。そして明へ攻め入る道を日本軍に渡すことはできないと拒否する朝鮮の意思を無視し、1592(文禄元)年、15万余の大軍を朝鮮に送り戦争がはじまった。(文禄の役・壬辰倭乱)。日本軍は釜山から朝鮮北部へ兵を進めたが、李舜臣のひきいる朝鮮水軍や明の援軍、また義兵などの反撃と抵抗にあい、苦戦するようになった。
 そのため、明と講和をはかって休戦した。講和の交渉は秀吉の要求が入れられなかったため決裂した。そこで秀吉は1597(慶長)年、今度は朝鮮半島の半分を領土化する目的で、14万余の大軍を朝鮮に送った(慶長の役・丁酉倭乱)。しかし、日本軍は悲惨な戦いを強いられたので、翌年、秀吉の病死を機に全軍が朝鮮から撤退した。
 2度の侵略は朝鮮の人々に多くの被害をもたらした。そのうえ、撤兵のさい仏像や金属活字などの文化財を略奪し、製陶技術者や学者をはじめ2万〜3万の民衆を日本に連行するなどして多大の苦痛を与えた。
 戦いは膨大な戦費と兵力を費やしたため、国内でも軍役に苦しむ武士の間から一揆がおこり、困窮した農民の逃亡が増大するなどして村々を疲弊させたので、豊臣政権の支配力が急速に弱まっていった。

(図表) 秀吉の朝鮮侵略 (写真と解説) 耳塚
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改定日本史 東京書籍 (平成4年3月31日 改定検定済)

(秀吉の対外政策)
 秀吉は、国内統一をなしとげると、新たに対外的進出の機会をうかがい、朝鮮に対して日本への朝貢と、対明侵攻のさいの先導をもとめた。朝鮮がこれを拒絶すると、1592(文禄元)年、秀吉は肥前の名護屋に陣をしいて大軍を動員し、朝鮮に出兵させた(文禄の役)。
 遠征軍は平壌(ピョンヤン)などにまで進出したが、諸将のあいだの不和と水軍の劣勢、また朝鮮の義民軍による抵抗と明の援軍などのために、しだいに戦局は不利となった。講和の交渉にのぞむため、秀吉はいったん兵をひかせたが。交渉が不成立におわると、1957(慶長2)年、ふたたび出兵させた(慶長の役)。しかし、この出兵は最初から苦戦をしいられ、翌年、秀吉の死を機会に朝鮮から撤兵した。ばく大な戦費と多くの兵力をつぎこんだこの出兵の失敗は、諸大名のあいだに対立をひきおこし、豊臣政権の没落をはやめる結果となった。
 ■この戦争のあいだに、朝鮮から活字印刷術や多くの書籍が伝わり、また諸大名が挑戦の陶工を連れ帰ったことから、有田焼(鍋島氏)、薩摩焼(島津氏)、萩焼(毛利氏)などの窯業が各地におこった。

(図表)文禄・慶長の役
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posted by tamatama at 11:44|   朝鮮侵略/壬辰倭乱 2011年06月07日
朝鮮侵略/壬辰倭乱 1
集英社版 日本の歴史J 天下一統 を読み終えた。信長の中世解体の歩みと、続く秀吉の全国統一の歩みが、内容である。二人とも、戦国乱世に終止符を打ち、島国日本の統一に大きな役割を果たした。信長は世界を十分意識していた。また、秀吉も世界を意識していた。秀吉は、全国平定をなしとげた後、唐、天竺までもと大きな野望を抱き、そして実行に移した。それが、「唐入り」=朝鮮侵略である。

内容を、まとめてみた。

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集英社版 日本の歴史J 天下一統 (神戸大学教授 熱田 公)

朝鮮侵略
(侵略の論理)
秀吉がはじめて大陸侵略の意図を文書に記したのは、1585年(天正13)9月、関白任官直後のことである。秀吉は、日本はおろか「唐国(からくに・中国)まで」も征服しようと努力しているのだと、家臣団相互の紛争回避や統制のために中国という大きなパイを、大名たちの目の前にぶら下げたのである。

秀吉は中国征服を目指したが、その途中にある朝鮮は対馬の属国であると秀吉は考えていた。九州平定の後、秀吉は対馬宗氏に、朝鮮国王に入洛させること、承知しなければ朝鮮に出兵するよう命じた。耕地の少ない対馬は、生活を朝鮮との交流に頼っており、朝鮮からみれば対馬は朝鮮慶尚道(キョンサンド)の一属島にすぎない。その対馬が秀吉の要求どおりに動けるはずがなく、宗氏は秀吉と朝鮮国王双方の顔を立てるべく苦心を重ね、1590年11月、朝鮮通信使を訪日させることにこぎつけた。通信使の来日は、秀吉の日本統一祝賀のためで、対等な国際関係を意図するものであった。ところが聚楽第で一行を引見した秀吉は、これを服属の意思表示とひとり合点した。そして朝鮮の国書に対する答書で、明四百余州征服の抱負を述べ、朝鮮が先駆して明に入ることを命じたのである。

(第一次侵略)
こうして、「唐入り」といわれた大陸に向けての遠征が1592年(天正20、文禄元)実行に移されることとなった。先に来日した朝鮮通信使は秀吉の要求に抗議したが、秀吉は耳をかさなかった。困惑した宗氏は「明へ入るために朝鮮の道を借りたい」と交渉したが、朝鮮からの返事はなかった。こうして、4月12日、第一次侵略(文禄の役・壬辰倭乱)がはじまった。

朝鮮側は十分な防衛体制がとれておらず、日本軍は大きな抵抗をうけないまま、5月3日、首都漢城(今のソウル)を陥落させた。ついで、日本軍は、朝鮮八道の征圧をめざした。各道の分担として、宇喜多秀家、福島正則、小早川隆景、毛利輝元、黒田長政、小西行長、森吉成、加藤清正らを決めた。そして農民を還住させ、法度をきびしくするなど日本同様の支配を行い。年貢を徴収して、明征服の足場をかためようとした。軍事面では6月、平壌を占領、7月、会寧(ホエリョン)を占領して朝鮮の2王子を捕らえた。

秀吉は、4月25日、名護屋城に入った。漢城攻略の報を聞いた直後の5月18日、京都にいる関白秀次にあてて二十五か条の覚えを出して、来年の出陣を命じ、明後年にも後陽成天皇を北京に移して周辺十カ国を進上、秀次は北京の関白にして百カ国をわたす、日本の関白は羽柴秀保か宇喜多秀家に与える、という一大帝国の空想プランを述べている。一大帝国を夢見た秀吉は自らも渡海しようとしたが、徳川家康、前田利家に諫止された。それは、しだいに朝鮮民衆の抵抗運動が高まりを見せ、海上では李舜臣らの水軍が威力をみせ日本の制海権が大きく制限されるような事態になっていたからである。さらに7月には、明の救援軍が平壌を攻撃した。このときは撃退したものの、明救援軍の登場は日本軍に大きな衝撃を与えた。

(講和交渉)
戦いの長期化とともに日本軍にも厭戦気分がひろがりはじめ、明軍李如松の弱気もあって、講和のムードが生まれた。しかし、朝鮮が講和に反対したため、講和交渉は、日・明の間で行われることになった。1593年6月、名護屋に来た明の使節に対し、秀吉は七か条の講和条件を示した。明の皇女を日本の天皇の妃とする、朝鮮の北四道と漢城は朝鮮に返却し、南四道は日本のものとする、朝鮮王子一人を人質として日本に送る、朝鮮の重臣が日本に背かない旨誓紙に書く、などの七か条である。朝鮮での合戦に勝利をおさめたという前提にたったものであった。

だが、名護屋にきたのは偽りの使節にすぎず、条件は明皇帝に届くはずがなかった。戦争の早期終結を願う小西行長は明の窓口、沈惟敬とはかって行長の家臣を明皇帝のもとに派遣し、日本が明の属国となり、秀吉が中国皇帝から日本国王として認められる、などの条件を承諾していた。

1596年9月、秀吉のもとに明使が到着、大阪城で引見した。明使がもたらした国書には、さきに要求した七か条はまったく無視され、「特に璽(なんじ)を封じて日本国王と為す」と書かれていることが発覚した。秀吉は激怒し、第二次侵略がはじまることとなった。

(第二次侵略)
講和交渉中も、釜山付近に日本軍は駐留しつづけていたが。1597年(慶長2)2月、約14万の軍勢が逐次朝鮮にわたった。第二次侵略(慶長の役・丁酉倭乱)は、第一次とちがって、明征服ではなく、講和交渉で秀吉が要求した朝鮮南四道割譲を武力で達成しようとするものであった。

第二次侵略は日本軍の残虐行為が、第一次よりもさらにひどくなった。第一次では明・朝鮮軍将兵の首級のかわりに鼻や耳を切り取って運んでいたが、第二次では鼻の数が戦功のしるしとされ、非戦闘員の男女を問わず対象となり、女子や幼児も含まれることもあり凄惨なものとなった。一大名で2万近く、一回で1万を越す場合もあった。

さらに、日本軍は2万人とも3万人ともいわれる農民、職人、朱子学者らを、捕虜として日本に連行した。農民の捕虜は、九州・四国・中国地方の、大量の農民が陣夫などで徴発された後の農村で、奴隷的な労働をしいられた。職人では、陶工の例がよく知られ、萩焼・有田焼・薩摩焼などはこれら陶工によって有名となり、朱子学者ともども、日本は文化のうえで大きな恩恵をうけることとなった。だが、もとよりきわめて異常な文化交流であり、はるかに大きな傷あとを、連行された人々にも、朝鮮民衆の心にも残すこととなった。

こうして泥沼に入ってしまった第二次侵略を、秀吉はもはやその死以外に、収拾することはできなかった。1598年8月、秀吉は62歳の生涯をとじた。多数の将兵が朝鮮に出陣中のこととて、秀吉の死は秘せられ、ひそかに京都東山の阿弥陀峰に葬られた、石田三成らが尽力して、朝鮮からの撤兵はなんとか完了した。しかし撤退の過程から家臣団の対立が激化、盛大な葬式は結局行われなかった。
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小学館 日本大百科全書 「文禄・慶長の役」の内容も、上とほぼ同様だった。
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