日本/歴史・・朝鮮侵略/壬辰倭乱3

posted by tamatama at 20:25|   朝鮮侵略/壬辰倭乱 2011年08月26日
朝鮮侵略/壬辰倭乱14
日本の華夷思想は、どのように作られたか。

「朝鮮侵略/壬辰倭乱13」で、倭国成立から、大宝律令完成(701)までの年表を作って、調べた。今回は、引き続き、足利義満が明へ使節派遣し、朝貢貿易で国交正式回復(1401)までの年表を作成し、調べてみた。 
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(年表を作って分かったこと)

3つの期間 W.X、Yに分けられる。
(T、U、Vは「朝鮮侵略/壬辰倭乱13」から)

期間 T: 倭国成立(57頃)から加羅滅亡(562)まで
期間 U: 加羅滅亡以降から白村江の戦いでの敗北(663)まで
期間 V: 白村江の大敗北から大宝律令完成(701)まで

期間 W: 大宝律令完成から新羅人の入国禁止(842)まで
期間 X: 新羅人の入国禁止以降、元軍再び来襲(弘安の役)(1281)まで 
期間 Y: 弘安の役以降、義満、明と朝貢貿易で国交正式回復(1401)まで      
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中国と日本の関係    中国と朝鮮半島との関係   朝鮮半島と日本の関係

<期間 T>
・称号受け国内統治の   ・称号受け国内統治の   ・競合、同盟関係
 権威付け           権威付け          ・日本は1ランク下
                                  ・日本は対等への努力
・制度、文化を吸収     ・制度、文化を吸収     ・鉄輸入、文化吸収 

<期間 U>
・称号受けず、朝貢のみ  ・冊封関係          ・競合、支援関係
 (遣隋使、遣唐使)    (蛮国として王権確立)   ・百済支援、新羅攻略
・律令制で第2帝国へ   ・小中華思想、事大主義 ・百済・高句麗から渡来人
・仏教世界観で日本独自化 ・唐・新羅連合軍、百済滅ぼす ・文化(仏教)吸収

<期間 V>
・中国手本に律令制確立  ・唐・新羅連合軍、高句麗滅ぼす ・新羅朝貢
 (浄御原令、藤原京)   ・冊封関係          ・統一新羅を蛮国視
・国史編纂          (内部小中華、中国事大) ・渤海蛮国視(国交あり)
 (「帝紀」「上古諸事」)                   ・唐・新羅侵入への恐怖
                                 

<期間 W>
・遣唐使派遣(形式的服属)・高麗、事大から独自天下 ・新羅蛮国視、日本に朝貢
・文化、経済交流      (中国並立、宋と国交断絶) (緊張関係、新羅国力まし
 (仏法・経典、文物)    (民間交流継続)      自立化、ついに国交断絶)
・律令制度の日本化                     ・渤海蛮国視、日本に朝貢
(土地制度から形骸化)                   (形式朝貢だが、お互い経済
・民族意識強まる                       メリットあり妥協)                          
(古事記、日本書紀)                     ・高麗とは民間交流続く                   

<期間 X>
・民間貿易活発(日唐、日宋)・高麗(宋にならう)    ・高麗蛮国視、硬直した対応
・文化的にも自立傾向    (独自天下、中国事大)  ・日本内向きで対応できず   
(「古今和歌集」「和漢朗詠集」(元に抵抗30年、干渉) (医師派遣・三別抄無視)
・武家政権、対中国対等意識                ・緊張関係でお互い敵国視
(日宋)

<期間 Y>
・中国と対等意識(元・明)  ・高麗・元干渉       ・倭寇の朝鮮侵入
・明と朝貢・国交回復で貿易 ・朝鮮・明冊封     (九州探題・西国大名に要請)
                  (国際的地位保障)    ・民間の交流・摩擦
                                  ・自国を神国視、高麗を夷狄
                                  (日本の社会に定着始まる) 
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(華夷思想の強化と神国思想の成長)

「中世日本は、国家権力が次第に弱体化していった時代である。」(「日本の『境界』前近代の国家・民族・文化」ブルース・バートン 著(青木書店) P37〜42 から引用、要約)

<期間 W>
「中世日本の世界観は、もっとも浄い存在とされる天皇の身体を中心としたもので、天皇が住む洛中から離れれば離れるほどケガレが多くなっていくという同心円の構造をもっていた。もっともケガレた地域は、日本国の境界を越えた「異域」であり、そこには「鬼」が住み、あらゆる厄災を日本にもたらすと考えられていた。そしてその厄災に対抗して天皇および国土の清浄を守りうるのは、現世的な政治支配や武力よりは、神仏のみがふるいうる超自然力であった。(村井章介)」(バートン 前書 P37〜42)

日本は、遣唐使派遣により唐に形式的に服属していた。国内では唐の文化、文物が憧れの対象となり、特に仏教界では唐へ渡る仏僧が相次いだ。律令制度は、大宝律令の完成をもって基礎が築かれ、政権の中央集権化は進んだ。辺境の蝦夷、隼人への攻撃と領土の拡大が進んだ。

日本は新羅、渤海を蛮国視していた。両国は、当初日本に朝貢する立場で使節を派遣していた。日本との交易は経済的なメリットが大きかったからである。しかし、新羅は次第に、国力を増し日本と対等の立場に立とうとし、服属関係をめぐっての対立から国交を断絶するに至った。

渤海は、当初より、日本に朝貢する姿勢を示し、その後渤海滅亡まで200年間にわたって日本に遣渤海使を34回送ってきた。渤海と日本は服属関係にあったが、形式的なもので日本が渤海に対して干渉することもないためお互いが経済的なメリットを認識し、妥協しながら関係を続けたものである。新羅は、大陸の唐との関係を重視していたこと、渤海は大陸の「海東」の国で唐の影響が弱いことがその要因と考えられる。

渤海使の来日は、日本の政権にとっても自らの華夷思想を確認し、国内的に自らのステータスを高めるものであった。対外的な交流が薄くなる分、自らの権威と正統性を自らが確認する必要が生まれてきた。唐に負けない都城、平城京の造営をおこない対外的に目に見える形で権威を示し、同時に「古事記」、「日本書紀」の編纂、完成をもって自らの正統性を確認、強化した。33年ぶりの遣唐使は、これまでの呼称「倭」を「日本」にすることを唐に承認してもらった。自国の国名を自分で決められないところに、日本が自立化の途中であることを示している。

平城京遷都から100年後、国内経済は発展し平安京遷都を実施した。また、遣唐使はその後半世紀後に中止となった。

<期間 X>
「平安時代から、江戸時代にかけて、社会のエリート層の間における自民族中心主義が漸増し、そしてそうした考えは日本社会全体へ外延的・下方的拡散していった。

9世紀半ばから東シナ海に出没しはじめた新羅海賊による対馬、壱岐や九州本土への被害等が引き金になって、9〜10世紀にかけて、中央エリート間に<浄ー穢れ>を基準にした世界観が成立し、「異域」(つまり外国)が、ケガレに満ちたところだと考えるようになった。律令体制から「王朝国家体制」への転換も,こうした思想面の変化が背景にあったのだろう。このころ、朝廷の政策決定者たちは、消極的になり、内的・外的な脅威への対応能力を失っていたのである。

日本を指す言葉として「本朝」、「扶桑」、「神国」といった表現も平安時代の資料に頻繁に登場するようになる(村井、木村)。民族意識の向上によるものだが、特に「神国」という言葉は、1274年と1281年の元寇で、元の攻撃を「神風」が防いだということで一層、重みを増した。そして、日本が神々に守られた神聖な土地である考えを強化する格好の材料となった。

10世紀には、律令期の「辺」概念にかわって、日本国の「四至(しいし)」(境界)の具体的記述が現れた。東側では外ヶ浜(津軽)、西側では鬼界ヶ島(薩南諸島)および壱岐と対馬などである。(大石直正、村井章介)これは、中世を通じてほとんど変わることがなかった。

古代では、「国境機能」の管理は、大宰府、鎮守府などの出先機関にて行われていた。しかし、中世になると、国境機能における中央集権的な色彩は薄くなる一方で、境界付近では独立性をもった勢力が現れた。」
(バートン 前書 P108〜110)

国内では、農民の逃散、逃亡により班田収受制を基盤とする律令制が崩壊しつつあった。藤原摂関家の支配が強まると、荘園寄進が相次ぎ土地は天皇。摂関家に集中するようになった。土地支配の方法は多様なものとなり、在地で権力をもつものが土地支配を強めるようになって、中央主権的な支配構造は徐々に崩れていった。しかし、法制度としての律令制はこの後も続いた。

律令制度は、形式的には隋、唐から受け継いだものを忠実に守り、強化する方向であったが、中央集権的な経済基盤が崩れると、現実と乖離するものとなっていった。政権の貴族層は、唐帝国の滅亡、渤海・新羅の滅亡と続く動乱期に対外的に、硬直した対応しかできなかった。それは、引き続いて政権を担当した武家政権でも同様に引き継がれ、元帝国の動向にも疎く三別抄の元に対抗する支援要請の無視、元の平等互恵の申し入れ無視となり、結果として元の侵略を招いた。

このような、対外的無頓着の背景には遣唐使派遣中止以降400年にわたり、渤海を除けば正式な国交がない「変化に対応しなくてもいい内向き政治」を続けてきたことがある。国内では、自らの正統性を求めて「神国思想」を強化し、「国風文化」を育み民族主義志向を強めていった。自らの国際感覚の乏しさを実感することのない時代が続いた。

朝鮮半島では、唐の滅亡により大陸からの圧力が弱まり、新羅が弱体化し後三国の分裂時代に入った。これを統一した高麗は、宋が興るとすぐに事大関係を結んだ。宋は、唐に比べると国力も弱く、周辺国への圧力も弱かったため周辺の国々は自立志向を強めた。高麗は、自らの地位を宗主国である宋と同等に考えるようになった。それが、日本に対しても、対等の関係を求めるようになり日本との緊張関係を生みだした。

中国、朝鮮の国々とも民間交易は途絶えることなく行われた。むしろ、政権担当者が独占していた海外交易を民間の者たちが徐々に交易を行う場を広げていったといえるだろう。交易には相手がいることであるから、中国、朝鮮においてもそういった者達が増えていった。それは、中央集権的国家体制が、次第に弱体化していった結果であり、彼らの活躍が政権の中央集権的性格をますます弱めていった。

「元寇」は、日本の政権担当者とともに、一般民衆にも大きな影響を与えた。武家政権は、元の撃退に力を発揮したが、結局、侵略軍を武力で壊滅させることができず、「神風」のおかげで撃退することとなり、神国思想が強化された。民衆の間には「ムクリ・コクリ」という夷狄を訳もなく恐れる風潮が現れ、やはりそれを撃退できたのは日本が、神国であるからだという神国思想が強化された。倭国成立以来培われてきた華夷思想は、日本は神国であるという神国思想に一段と強化され、日本の支配者層と民衆を覆うこととなった。

これは、律令制度の下で中国大陸の強国を天子の国と崇めていた姿勢を、自分たちこそが最も高みにある国なのだと思わせるように変化させた。これまでの華夷思想には、相対的な部分があり常に華夷の序列を見直す部分があったが、神国思想はこれを拒否し、自らを誰かにその正統性や権威を付与されたといったふうなものではなく、誰もそれらを否定したり、論拠を求めたりできない絶対的なものとした。自らの国を神国として見ることは、国内的には統一の規範になりえても、対外的には摩擦・対立を生むことは不可避であった。

倭寇は、その成立のきっかけは生存をかけた経済的なものであったろうが、朝鮮、中国へ侵入し略奪を繰り返す背景には、「八幡大菩薩」を旗印にしたように神国思想があった思われる。

<期間 Y>
これから、しばらくは、「倭寇」、「海商」が東アジアの海域を縦横に行き交う時代となる。倭国、百済、新羅、高句麗が、同盟・競合を繰り返した時代の再来である。当時の東アジアは、中国強大国の華夷思想を背景にしていたが、今回は各国が自立を強めている。
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(まとめ)

  期間 T: 倭国成立(57頃)から加羅滅亡(562)まで
  期間 U: 加羅滅亡以降から白村江の戦いでの敗北(663)まで

期間 T、Uは、日本が対外的に軍事的、外交的戦いを繰り返していた時代である。国内の統一過程と、対外的摩擦は同時並行的に行われた。中国大陸強大国が、他民族統治理念としての華夷思想をもつ政治制度律令制度をもっており、周辺国もこの律令制度を取り入れ早急に中央集権国家を作らなければならなかった。律令制導入と同時に華夷思想が持ち込まれた。

  期間 V: 白村江の大敗北から大宝律令完成(701)まで
  期間 W: 大宝律令完成から新羅人の入国禁止(842)まで
  期間 X: 新羅人の入国禁止以降、元軍再び来襲(弘安の役)(1281)まで

期間 V、W、Xは 日本が対外的に、軍事的、外交的戦いが少なくなり内政重視で国家体制を確立していった時代である。前半は、律令制度の導入、確立期であり、制度と文化の導入を中国。朝鮮に求めた。自国意識を確立するため積極的に仏教の教義を導入した。律令制度の強化は、華夷思想の強化となった。

後半は、律令制度の崩壊が進み、同時に中央集権体制が弱体化した。海外交流の少ない時代、自らの正統性(アイデンティ)を確認するために国史の編纂が行われ、同時に日本独自の文化が生まれ、社会に広がりはじめた。「異国」の情報の少なさと、それに基づく恐れから日本が「神国」として守られているという意識を生み、それは日本への外敵の侵入(刀伊の来襲(女真族)、度重なる朝鮮海賊の九州来襲、倭寇など)で強化された。

  期間 Y: 弘安の役以降、義満、明と朝貢貿易で国交正式回復(1401)まで

期間Yは、再び日本が東アジアを中心とした地域で対外的交流と摩擦を繰り返す時代である。その主人公は日本の政権担当者ではなく、民間の倭寇や地方の権力者、さらには、地方大名、有力豪商などである。  

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古代・中世対外外交史
(大宝律令完成から、義満明と正式国交回復まで)
  
701(大宝1) 8月 大宝律令が完成 中央集権的な支配の基礎が固まる
             (唐・永徽律令手本に)
701      1月 33年ぶりに遣唐使を派遣 粟田真人ら、大宝律令完成伝達
             (「倭」を「日本」にすることを承認してもらう任務)
710(和銅3) 3月 元明天皇、平城京に遷都唐にならい中央集権体制の整備へ

平城京 大極殿(復元)

712(和銅5) 1月 天武天皇以来の宿願「古事記」が完成 太安万侶が撰録する
720(養老4) 3月 南九州で隼人が反乱 大友旅人 征隼人持説大将軍に
720      5月 「日本書紀」が完成する 漢文と編年体を駆使
             初の勅撰歴史書(平安朝にかけ読書会)

日本書紀(平安時代写本)

724(神亀1)    あいつぐ蝦夷の反乱 東北経営の拠点 多賀城を築造
727(神亀4)12月 渤海使が国交求め初来日 東アジアでの孤立化を防ぐため
731(天平3) 4月 日本兵船、新羅で大敗 日本海沿岸に緊張高まる
732(天平4) 8月 東海・東山など4道に節度使を任命 臨戦態勢整う
             (2年後に解散)
735(天平7) 4月 吉備真備、玄肪ともに帰国 唐の文物を献上
             (真備は「唐礼」130巻、暦書でもある「大衍暦経」1巻、
             「大衍暦立成」12巻、樂書「樂書要録」10巻、そのほか
              天文観測具、楽器類、武具など。玄肪は、経論5000巻、
              種々の仏像)
752(天平勝宝4)6月 新羅の王子らが入京
               アラビア産の珍品も持参する(貿易が大きな目的)
753(天平勝宝5)1月 遣唐使一行、新羅と席次をめぐる争い 唐も困惑
               (669以降新羅日本に朝貢、唐を駆逐後対等関係主張)
760(天平宝字4)9月 新羅遠征の機運高まる 新羅使を追い返す
791(延暦10) 9月  牛を殺して漢神を祀ることを禁止
797(延暦16) 2月 「続日本紀」が完成する 「日本書紀」に続く正史
794           平安京遷都
799(延暦18) 5月 新羅との国交断絶 渤海との貿易は活発化
802(延暦21)4月 蝦夷の総帥阿弖流為(あてるい)が降伏 東北大戦争終結
818(弘仁9)     勅撰漢詩集「文華秀麗集」が完成 いたるところに唐風文化
820          弘仁格式編纂(律令を日本の実情に見合った内容に)
834(承和1) 1月 遭難また遭難・・・最後の遣唐使が渡航
842(承和9) 8月 新羅人の入国を禁止
             民間貿易は許す 渤海とは国交続ける
            (大国としてふるまいはじめた新羅への排外思想)

849(嘉祥2) 8月 唐商人53人が大宰府に着く
            舶来珍品はまず朝廷から(留学僧は唐船利用)
858(天安2) 6月 円珍、修行を終え唐より帰国 みやげは1000巻の経典   
861(貞観3) 6月 新しく宣命暦を採用へ 800年以上使用へ
869          貞観格式
894(寛平6) 9月 内に疫病・凶作、外に海賊 道真の進言で遣唐使を停止
             (民間貿易、通交は続く)
この頃         神仏習合の象徴 薬師寺に八幡三神像本地垂迹説生まれる
901頃        「竹取物語」が完成 永遠の命にあこがれるかぐや姫誕生
             (神仙思想、漢籍・仏典に造詣の深い男性知識人が
             民間伝承をもとに創作か)
905(延喜5) 4月 紀貫之らに醍醐天皇 「古今和歌集」編纂を指示
907          唐帝国が滅亡 東アジアはいっきに激動期へ
            (中国は、70年に及ぶ五代十国時代へ、朝鮮半島では新羅が
             弱体化し後三国の分裂時代に、渤海は契丹国によって滅亡、
              日本では朝廷を震撼させる承平・天慶の乱)
920(延喜20)5月 最後の渤海使帰国の途に
             200年間の国交に終止符(34回)
926          渤海滅亡
927(延長5)12月 便利な行政便覧 延喜式が完成 施行は40年後
             (全50巻 巻1から10が全国の神名2巻を含む神祇官関係、
              巻11から40が太政官八省関係の式、巻41〜49が弾正台
              などの八省以外の諸司の式、巻50が雑式。
              政府による法典編纂は、この延喜式を最後に途絶する)
935          新羅滅亡
936          高麗後三国を統一
972(天禄3)10月 高麗から使者来日 日本政府の外交方針は朝貢以外認めず
            (律令制下の硬直した対応)
982 頃       源高明が「西宮記」をまとめる 朝廷儀式の手引書
1018頃       藤原公任が「和漢朗詠集」を編纂 平安貴族の愛読書へ
              (漢詩文588首、和歌216首)
1019(寛仁3)4月 刀伊軍、博多に来襲 上陸目ざすが大宰府官人が撃退
1045(寛徳2)8月 日宋の交易盛ん 但馬国守が交易品を横領?

高麗青磁


北宋銭

1053(天喜1)3月 この世に作られた「極楽浄土」平等院鳳凰堂が落慶
1080(浄暦4)10月 病気を治せなければわが国の恥 高麗への医師派遣を拒否
1094(嘉保1)5月 遼との私的貿易発覚 伊房役職を解任される
1124(天治1)8月 藤原清衡が金色堂を建立 みちのくに極楽を現出
1168(仁安3)9月 中国で、仏法と夢を語り 栄西と重源が帰国
1172(承安2)9月 宋からの贈り物で味しめる 平氏の資金源は日宋貿易
1185(文治1)3月 驕れる者久しからず 平家一門、壇ノ浦でついに滅亡
1191(建久2)7月 僧栄西、宋より帰国 みやげはお茶と臨済宗
1192        源頼朝「征夷大将軍」になる 鎌倉幕府誕生
1232(貞永1)8月 最初の武家法典 御成敗式目51か条を制定
1270(文永7)6月 高麗で三別抄の乱 元日本侵略の陰に高麗民衆の苦悩
            (珍島でモンゴル軍に抵抗 1271日本にモンゴル軍動向、
             平等互恵の関係求める牒状)
1274(文永11)10月元軍、北九州へ来襲 文永の役おこる
             集団戦法などに日本軍苦戦

蒙古襲来絵詞 文永の役 蒙古連合軍と戦う竹崎季長
(季長の恩賞願いのために作られたもの)

1277(建治2)1月 元軍再来の緊張のなか 東寺の長者道宝が異国降伏を祈る
             元の使者切捨て異国降伏の祈願盛ん、神国思想おこる
1281(弘安4)閏7月 元軍ふたたび来襲、弘安の役 
              台風で大半が海のもくずに

蒙古襲来絵詞 弘安の役 蒙古連合軍の軍船に切り込む竹崎季長

1293(永仁1)3月  3度の来襲に備え 鎮西探題を設置 北条兼時らを派遣
1301(正安3)11月 元の来寇か!異国船200隻 薩摩の甑島沖に出現
            (元のものか不明)
1325(正中2)7月  中国貿易が復活
              蒙古襲来から半世紀 建長寺船の派遣で
1339(延元4・暦応2)秋 「南朝が正統!」北畠親房、陣中で「神皇正統記」を著す
                 「大日本は神国なり」)
1341(興国2・暦応4)12月 天竜寺船の派遣決定 後醍醐天皇弔う寺院建立へ
1350(正平5・観応1)2月 倭寇、高麗に侵入2000人の海賊は日朝の海民
1358(正平13・延文3)頃 「神道集」完成 本地垂迹の教義と諸社の縁起あつめ
1369(正平24・応安2)  明の国使、大宰府へ 懐良親王 倭寇禁圧を拒否
1377(天授3・永和3)9月 高麗使、倭寇禁圧要請九州探題今川了俊協力約す
                 (高麗との交易開始)
1383(弘和3・永徳3)   琉球三山の抗争やまず 明帝が停戦の使者
1389(元中6・康応1)2月 倭寇の狼藉に怒り高麗軍、対馬へ 倭船300隻焼く
1392(元中9・明徳3)   高麗無血革命 李成桂が王位を獲得李氏朝鮮建国
1394(応永1)7月     倭寇対策推進役 今川了俊、捕虜送還で大蔵経求める
1401(応永8)5月     義満、明へ使節派遣
           朝貢貿易で国交正式回復 

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(参考にした本)
・「日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史 先史から現代まで」
  歴史教育研究会(日本)・ 歴史教科書研究会(韓国) 編 (明石書店発行)
・「向かいあう 日本と韓国・朝鮮の歴史 前近代編 上」
  歴史教育協議会(日本)・全国歴史教師の会(韓国)=編 (青木書店発行)
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posted by tamatama at 14:36|   朝鮮侵略/壬辰倭乱 2011年08月23日
朝鮮侵略/壬辰倭乱13
日本の華夷思想は、どのように作られたか。

秀吉の朝鮮征伐に華夷思想が影響を与えたのかどうか調べることにした。そもそも、日本の指導者層に、華夷思想があったのかどうか。もしあったとしたら、それはどのような過程を経て作られていったのか。

まず、年表を作ってみた。キーワードを、対外交流、対外戦争、華夷思想、朝貢、冊封、国家意識、国境、辺境などにおいて、「日本全史 ジャパン・クロニック (講談社)」の記事から抜き出した。今回は、倭国成立から、大宝律令完成(701)までをまとめてみた。年表を下に示す。

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(年表を作って分かったこと)

3つの期間に分けられる。
期間 T: 倭国成立から加羅滅亡(562)まで
期間 U: 加羅滅亡以降から白村江の戦いでの敗北(663)まで
期間 V: 白村江の大敗北から大宝律令完成(701)まで
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中国と日本の関係    中国と朝鮮半島との関係   朝鮮半島と日本の関係

<期間 T>
・称号受け国内統治の   ・称号受け国内統治の   ・競合、同盟関係
 権威付け           権威付け          ・日本は1ランク下
                                  ・日本は対等への努力
・制度、文化を吸収     ・制度、文化を吸収     ・鉄輸入、文化を吸収 

<期間 U>
・称号受けず、朝貢のみ  ・冊封関係          ・競合、支援関係
 (遣隋使、遣唐使)    (蛮国として王権確立)   ・百済支援、新羅攻略
・律令制で第2帝国へ   ・小中華思想、事大主義
・仏教世界観で日本独自化

<期間 V>
・中国手本に律令制確立
 (浄御原令、藤原京)   ・冊封関係          ・新羅を属国視
・国史編纂         (内部小中華、中国事大)   (国交なし)
                                  ・唐・新羅侵入への恐怖

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(華夷思想の萌芽と成長)

「華夷思想とは、中国を天下の中心や文明の源としてとらえる、極めて民族主義的な世界観である。中国は、天の大命を受けた天子が「徳」を以って支配しており、それに対して「徳」の及ばない周辺地域は「四夷」(東夷、西戎、南蛮、北狄)として、中国と区別されていた。しかし、これらの領域は、天子の「徳」が四方に拡大することで中国に編入されるフロンティアであった。」(「日本の『境界』前近代の国家・民族・文化」ブルース・バートン 著(青木書店) P29〜32 から引用、要約)

<期間 T>
卑弥呼は、57年魏王から「親魏倭王」の称号を受けた。国内での地位を高めるために、中国の強大国の権威を借りる必要があった。自らの正統性を訴える方法ではなく、外の力に頼らなくてはならない状況は当時の東アジアの活発な交流を物語るものであるが、その後の日本の王権の事大主義的性格を示唆している。同時に、その裏返しとしての華夷思想の萌芽も透けて見える。

「宋書」倭王武の上表(478)で、「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十九国」と書かれているように、クニの統一過程において華夷思想の萌芽が見られる。倭王武が「毛人、征する、衆夷、服する、平ぐる」と、述べた背景には、この時すでに中国の華夷思想が、日本の指導者層に流入していたことを示している。この時、ヤマトが中華で、そのほかの国々は夷狄であった。

朝鮮半島の国々も、同じく律令制の吸収と同時に華夷思想が流入した。彼らにとっては、日本は夷狄、蛮国であった。

<期間 U>
「律令制時代の日本は、客観的には唐帝国の衛星国家であり、新羅など他の衛星国家と同格であった。しかし、律令国家が採用した政治思想においては、唐は対等な『隣国』とみなされ、新羅は日本に従属する『諸蛮』として処遇されたのである。エミシとハヤトは『夷狄』であった。

律令制の確立によって、『化内』、『化外』の区分と『辺』という概念が出現した。『辺』は、境界地域で『フロンティア』であった。」(バートン 前書 P29〜32))

日本は、朝鮮半島での主導権争いに敗れ、辺境の島国として独自の歩みをすすめることになった。中国に近く陸続きで接する朝鮮半島の国々と違い、日本は海を隔て孤立していることが中国、朝鮮の軍事的な脅威を幾分か和らげていた。

その結果、唐からは文化、制度を吸収するが冊封は受けないという姿勢を主張することになり、唐も辺境の国、日本が朝貢をしている限り蛮国として自ら認めているとして、あえて冊封にはこだわらなかった。自らを第2の帝国とする努力は、国内的には蝦夷、隼人の征伐となり、対外的には朝鮮半島各国の属国視となった。日本指導者層は、朝鮮の国々と、外交的手段、軍事的手段で競い合うことで、日本を「化内」として見る意識をますます強め、自立を意識しはじめた。華夷思想は強化されていった。

<期間 V>
「645年の蘇我氏の没落、翌年の大化の改新は、国内における政治的統合の新しい段階への動きを示し、朝鮮半島における唐・新羅連合軍との戦いとその結果としての白村江の敗戦は、当然、唐人や新羅人に対して、《我々日本人》という意識を強めたであろう。

また、奈良時代の前後には、北辺においては異種族として意識されていた蝦夷と長期にわたる抗争が展開していた。これもまた、共族意識を強化し、維持するのに有利な政治的環境であった。つまり、共族意識の点からみても、日本民族の形成にとって決定的な時期は奈良時代の開始をはさんだ時期なのである。(大林太良)

670年前後における「日本」という新しい国号の採用と、8世紀初頭における『古事記』、 『日本書紀』の編纂が「我々日本人」の意識の現われと考えてよい。(大林太良)」(バートン 前書P103〜104)

白村江の戦いで唐・新羅連合に大敗を喫した日本は、新たな日本を模索せざるを得なかった。国内的には、ヤマト王権の確立が進み中国大陸からの王権の権威付けに頼らなくてもよくなった。唐は、文化、政治制度の面ではやはり上位にあって、憧れ、見習うべき国であった。日本は、国内の領土拡張で華夷思想をますます強化するとともに、自らの律令制度を拡充して唐から自立、並立する第2帝国を目指した。

朝鮮半島の新羅も、政治思想としての華夷思想を本質的に持つ律令制度を強化した。日本、新羅ともお互い相手を属国視したから、公式な国交は途絶えてしまった。

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(まとめ)

倭国成立から、大宝律令制定まで 3つの期間に分けた。

<期間 T>では、中国大陸の強国から称号を受けることによって、国内統一の権威付けを行い、また朝鮮半島各国と主導権争いを行った。導入しようとした律令制度は、中国大陸の強国が統治の基本理念とした「華夷思想」(中華思想)を持っていたために、導入した日本、朝鮮各国も同じく統治理念としての「華夷思想」を持つこととなった。

<期間 U>は、日本が加羅滅亡によって朝鮮半島での主導権争いの足がかりを失い、朝鮮半島の各国と同盟・支援を行ってその影響力を保持しようとした時代である。新羅攻略が主要課題であった。この期間、日本は中国大陸強国、唐から律令制度を学び強化していった。同時に、自らも唐に次ぐ第2の帝国となろうとした。唐から冊封を受け、律令制度を整えつつあった新羅とは、お互い属国視する関係にあったから並立することはできなかった。唐・新羅連合軍に白村江の戦いで破れ、日本の華夷思想は打撃を受けた。

<期間 V>は、打撃を受けた日本の華夷思想を「内向き志向」で立て直す事から始まった。壬申の乱で王権強化を成し遂げた政権は、自国内の領土拡張での夷狄との争い、唐の律令制度を強化することによって華夷思想を強化していった。国史の編纂に、力を注ぎ日本の独自性を求めた。新羅とは、お互い属国視する関係にあったから正式な国交はなかった。

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(日本の華夷思想について)

日本が、倭国成立後、自らの政治制度を律令制度とすることは地政学的にいってやむ負えないものであった。広大な大陸の多民族の統治形態を支える理念としての「華夷思想」(中華思想)は、中国大陸の歴代王朝にとっては適したものであった。しかし、日本は辺境の島国でその境界も海にあって、中国大陸のように間断なく国境から異民族が侵入してくるという状況にはなく、果たして大陸風の強烈な「華夷思想」が必要であっただろうか。数百年以上も大陸国家から国家統一、中央集権化の遅れた日本が自らの政治制度、統治理念を生み出すということは不可能であっただろうが、学んだ中央集権政治制度、律令制度が強烈な「華夷思想」を統治理念として持っていたことは、日本のその後の歴史を考えると、ある意味不幸であった。

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古代・中世対外交流史 その1
(倭国成立から大宝律令完成(律令制度基礎確立)まで)


57     奴国王が後漢に使節 光武帝から金印を賜る
             (後漢の権威に依存して拡大)

247         卑弥呼が魏に使い 魏は対狗奴戦争支援を表明
             (卑弥呼 親魏倭王 金印 銅鏡100枚 賜る)
300頃        日本製か、中国製か 三角神獣鏡が副葬される
372         百済王子が七支刀を贈与 高句麗からの独立記念
            (百済全盛期)             
391         百済の要請で朝鮮に出兵 新羅侵入、高句麗と激戦
           (加羅の鉄確保、399にも出兵、404高句麗広開土王に大敗)

400頃        須恵器の生産はじまる 朝鮮半島の伝来の新技術で
421         倭王讃、南朝の宋に使いを送る 敵対する高句麗に対抗して
             (安東将軍・倭国王。高句麗王に征夷大将軍、百済王に鎮東大将軍)
478      5月 倭王武が宋に上表
            対高句麗戦争を誇示 同盟国百済王権の復興支援
             (使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦漢・慕韓六国諸軍事、
               安東大将軍、倭国王)

562         加羅がついに滅亡 新羅が占領
            倭の介入終わる  
593      4月 聖徳太子 女帝のもと国政の要に(蘇我馬子と協力)

601(推古9) 2月 聖徳太子 斑鳩宮の造営開始 隋との外交に意欲
602(推古10)2月 新羅遠征軍陣容決まる 将軍には来目皇子、兄太子の推薦
             (加羅(任那)諸国の新羅支配からの切り離しが目的)
602     10月 百済の僧観勒(かんろく)が来日 発展が期待される仏教界
             (百済・日本の新羅挟撃作戦の百済の代償として)
603(推古11)12月 冠位十二階を定める 官人の序列を冠の色で表す
              (中国北宋に倣う 中国に次ぐ第2の帝国の地位を、
              朝鮮3国に積極的に示す意図)
604(推古12)4月 「国に二君なく、民に両主なし」
            憲法一七条草案が発表される
607(推古15)7月 小野妹子らが第2次遣隋使に 仏教と礼制の摂取が目的
             (国書「日出づる処」で、第2の帝国認めさせるため)
610(推古18)3月 高句麗の僧曇徴が来日 彩色の法伝える 生活面も朗報
             (隋との戦争目前の高句麗が日本に軍事援助求めた代償)
618(推古26)5月 隋の煬帝、クーデターに倒れる 唐が大帝国建設
620(推古28)   アメとクニの歴史を総括 「天皇記」「国記」完成間近
             (大王の始祖が住む高天原を示す「天(アメ)」と、その始祖が
             天降って支配者となった国(クニ)」という世界観、中国の暦で
             初代イワレヒコ大王(神武天皇)の即位年を確定する試み)
623(推古31)   蘇我馬子 唐につぐ大帝国をめざし新羅遠征軍を派遣
             (加羅からの貢納は、わが国の朝鮮半島における大国的地位の保証
             加羅の領有を新羅にするか、百済にするかで激論)
630(舒明2) 8月 初めて遣唐使を派遣する 唐と結び新羅を牽制


遣唐使船 (東征伝絵巻 唐招提寺蔵)

630            難波津の外交施設 三韓の館を大修理


高松塚古墳壁画 (唐風の貴人服装)

643(皇極2) 6月 高句麗で対中国強硬派のクーデター
            東アジアの動乱に迫られる対応
645(大化1) 6月 大臣蘇我入鹿を殺す 中大兄らのクーデターが成功
650(白雉1) 2月 瑞祥あらわる 白雉が献上され改元する
             (僧旻「この白雉こそ、王の徳治が行われているとき、
              天が祝福して地上に下すという瑞祥にほかならない」)
652(白雉3) 9月 難波に新しい宮、ついに完成 外国使節に恥じない朝堂院
             (宮内に仏堂 儒教の中国とは別に、仏教の世界観でわが国
             独自の天下を構想するため)
657(斉明3) 7月 盂蘭盆会実施 唐を意識しわが国独自の天下を誇示
658(斉明4) 4月 阿倍比羅夫、水軍を率いて北上 日本海側の支配を拡大
             (律令法は中華思想により異民族支配を前提とする帝国法。
             倭国は称号を受けず自ら異民族を支配する小帝国目指す)
659(斉明5) 7月 第4次遣唐使出発 蝦夷を同行し大国の威容を示すが・・・
            (唐・新羅と百済・高句麗の軍事的衝突目前、
            わが国の立場を唐に釈明)
660(斉明6) 7月 唐・新羅軍に攻められ百済、ついに滅亡 日本が軍事介入
             (百済遺臣が、人質王子の百済召還と軍事援助を要請)
663(天智2) 8月 白村江で唐・新羅軍と激突!
         日本の軍船400隻が炎上
664(天智3)     北九州緊張!大宰府防備に水城と大野城など構築
             (百済の亡命官人指導で)

672(天武1) 6月 大友・大海人の皇位継承をめぐり 壬申の乱始まる!
             (大海人軍、大友軍破る皇子自殺)
681(天武9) 3月 天武天皇 国史編纂に意欲、権力の正統性もとめ
            (「帝紀」「上古諸事」)
682(天武11)7月 隼人が来朝し、相撲を披露 律令制が九州南部にも
682       9月 天武天皇、立礼の徹底を命令 中国風儀礼を採用
             (新羅などに対して宗主国の地位を示唆)
690(持統4) 7月 浄御原令の官制スタート 太政大臣に高市皇子
            (律令制国家の基礎固まる)
690      11月 天皇は時をも支配 最初の暦に中国暦を採用
694(持統8)12月 持統天皇、藤原宮に遷都
            中国にならった本格的都城
698(文武2) 4月 南島に使者を派遣 反抗には武力行使も辞さず
           (屋久島、奄美大島、種子島の朝貢確認、種子島の内国化など)

701(大宝1) 8月 大宝律令が完成
         中央集権的な支配の基礎が固まる
             (唐・永徽律令手本に)

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(「日本全史 ジャパン・クロニック (講談社)」から抜書き、調整)
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