日本/歴史・・古代中世対外関係年表
2011年09月20日
古代・中世対外関係年表
(「日本全史 ジャパン・クロニック」 講談社 より抜書き・調整) 
青色:友好関係 桃色:緊張関係 赤色:交戦


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57           奴国王が後漢に使節 光武帝から金印を賜る
             (後漢の権威に依存して拡大)
247         卑弥呼が魏に使い 魏は対狗奴戦争支援を表明
             (卑弥呼 親魏倭王 金印 銅鏡100枚 賜る)
300頃        日本製か、中国製か 三角神獣鏡が副葬される
372          百済王子が七支刀を贈与 高句麗からの独立記念に
            (百済全盛期)             
391         百済の要請で朝鮮に出兵 新羅侵入、高句麗と激戦
            (加羅の鉄確保、399にも出兵、404高句麗広開土王に大敗)
400頃        須恵器の生産はじまる 朝鮮半島の伝来の新技術で
421          倭王讃、南朝の宋に使いを送る 敵対する高句麗に対抗して
             (安東将軍・倭国王。高句麗王に征夷大将軍、百済王に鎮東大将軍)
478      5月 倭王武が宋に上表
           対高句麗戦争を誇示 同盟国百済王権の復興支援
           (使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦漢・慕韓六国諸軍事、
            安東大将軍、倭国王)
562         加羅がついに滅亡 新羅が占領
            倭の介入終わる  


<U>
593      4月 聖徳太子 女帝のもと国政の要に蘇我馬子と協力)
601(推古9) 2月 聖徳太子 斑鳩宮の造営開始 隋との外交に意欲
602(推古10)2月 新羅遠征軍陣容決まる 将軍には来目皇子、兄太子の推薦
            (加羅(任那)諸国の新羅支配からの切り離しが目的)
602     10月 百済の僧観勒(かんろく)が来日 発展が期待される仏教界
            (百済・日本の新羅挟撃作戦の百済の代償として)
603(推古11)12月 冠位十二階を定める 官人の序列を冠の色で表す
             (中国北宋に倣 中国に次ぐ第2の帝国の地位を、
              朝鮮3国に積極的に示す意図)
604(推古12)4月 「国に二君なく、民に両主なし」
             憲法一七条草案が発表される
607(推古15)7月 小野妹子らが第2次遣隋使に 仏教と礼制の摂取が目的
             (国書「日出づる処」で、第2の帝国認めさせるため)
610(推古18)3月 高句麗の僧曇徴が来日 彩色の法伝える 生活面も朗報
             (隋との戦争目前の高句麗が日本に軍事援助求めた代償)
618(推古26)5月 隋の煬帝、クーデターに倒れる 唐が大帝国建設
620(推古28)   アメとクニの歴史を総括 「天皇記」「国記」完成間近
             (大王の始祖が住む高天原を示す「天(アメ)」と、その始祖が
             天降って支配者となった国(クニ)」という世界観、中国の暦で
             初代イワレヒコ大王(神武天皇)の即位年を確定する試み)
623(推古31)   蘇我馬子 唐につぐ大帝国をめざし新羅遠征軍を派遣
             (加羅からの貢納は、わが国の朝鮮半島における大国的地位の保証
              加羅の領有を新羅にするか、百済にするかで激論)
630(舒明2) 8月 初めて遣唐使を派遣する 唐と結び新羅を牽制
630           難波津の外交施設 三韓の館を大修理
643(皇極2) 6月 高句麗で対中国強硬派のクーデター
           東アジアの動乱に迫られる対応
645(大化1) 6月 大臣蘇我入鹿を殺す 中大兄らのクーデターが成功
650(白雉1) 2月 瑞祥あらわる白雉が献上され改元する
             (僧旻「この白雉こそ、王の徳治が行われているとき、
             天が祝福して地上に下すという瑞祥にほかならない」)
652(白雉3) 9月 難波に新しい宮、ついに完成 外国使節に恥じない朝堂院
             (宮内に仏堂 儒教の中国とは別に、仏教の世界観でわが国
             独自の天下を構想するため)
657(斉明3) 7月 盂蘭盆会実施 唐を意識しわが国独自の天下を誇示
658(斉明4) 4月 阿倍比羅夫、水軍を率いて北上 日本海側の支配を拡大
           (律令法は中華思想により異民族支配を前提とする帝国法。
            倭国は称号を受けず自ら異民族を支配する小帝国目指す)
659(斉明5) 7月 第4次遣唐使出発 蝦夷を同行し大国の威容を示すが・・・
          (唐・新羅と百済・高句麗の軍事的衝突目前、
           わが国の立場を唐に釈明)
660(斉明6) 7月 唐・新羅軍に攻められ百済、ついに滅亡 日本が軍事介入
             (百済遺臣が、人質王子の百済召還と軍事援助を要請)
663(天智2) 8月 白村江で唐・新羅軍と激突!
             日本の軍船400隻が炎上


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664(天智3)   北九州緊張!大宰府防備に水城と大野城など構築
            (百済の亡命官人指導で)
668        高句麗滅亡、
672(天武1) 6月 大友・大海人の皇位継承をめぐり 壬申の乱始まる!
            (大海人軍、大友軍破る皇子自殺)
676        新羅三国統一
681(天武9) 3月 天武天皇 国史編纂に意欲、権力の正統性もとめ
             (「帝紀」「上古諸事」)
682(天武11)7月 隼人が来朝し、相撲を披露 律令制が九州南部にも
682      9月 天武天皇、立礼の徹底を命令 中国風儀礼を採用
            (新羅などに対して宗主国の地位を示唆)
690(持統4) 7月 浄御原令の官制スタート 太政大臣に高市皇子
            (律令制国家の基礎固まる)
690      11月 天皇は時をも支配 最初の暦に中国暦を採用
694(持統8) 12月 持統天皇、藤原宮に遷都
             中国にならった本格的都城
698(文武2) 4月 南島に使者を派遣 反抗には武力行使も辞さず
             (屋久島、奄美大島、種子島の朝貢確認、種子島の内国化など)
701(大宝1) 8月 大宝律令が完成
          中央集権的な支配の基礎が固まる
          (唐・永徽律令手本に)
701      1月 33年ぶりに遣唐使を派遣 粟田真人ら、大宝律令完成伝達
           (「倭」を「日本」にすることを承認してもらう任務)
710(和銅3) 3月 元明天皇、平城京に遷都唐にならい中央集権体制の整備へ
712(和銅5) 1月 天武天皇以来の宿願「古事記」が完成 太安万侶が撰録する
720(養老4) 3月 南九州で隼人が反乱 大友旅人 征隼人持説大将軍に
720      5月 「日本書紀」が完成する 漢文と編年体を駆使
             初の勅撰歴史書(平安朝にかけ読書会)
724(神亀1)     あいつぐ蝦夷の反乱 東北経営の拠点 多賀城を築造
727(神亀4) 12月 渤海使が国交求め初来日 東アジアでの孤立化を防ぐため
731(天平3) 4月 日本兵船、新羅で大敗 日本海沿岸に緊張高まる
732(天平4) 8月 東海・東山など4道に節度使を任命 臨戦態勢整う
             2年後に解散)
735(天平7) 4月 吉備真備、玄肪ともに帰国 唐の文物を献上
             (真備は「唐礼」130巻、暦書でもある「大衍暦経」1巻、
             「大衍暦立成」12巻、樂書「樂書要録」10巻、そのほか
              天文観測具、楽器類、武具など。玄肪は、経論5000巻、
              種々の仏像)
752(天平勝宝4)6月 新羅の王子らが入京
               アラビア産の珍品も持参する(貿易が大きな目的)
753(天平勝宝5)1月 遣唐使一行、新羅と席次をめぐる争い 唐も困惑
            (  669以降新羅日本に朝貢、唐を駆逐後対等関係主張)
760(天平宝字4)9月 新羅遠征の機運高まる新羅使を追い返す
791(延暦10) 9月  牛を殺して漢神を祀ることを禁止
797(延暦16) 2月 「続日本紀」が完成する 「日本書紀」に続く正史
794          平安京遷都
799(延暦18) 5月 新羅との国交断絶 渤海との貿易は活発化
802(延暦21) 4月 蝦夷の総帥阿弖流為(あてるい)が降伏 東北大戦争終結
818(弘仁9)     勅撰漢詩集「文華秀麗集」が完成 いたるところに唐風文化
820         弘仁格式編纂(律令を日本の実情に見合った内容に)
834(承和1) 1月 遭難また遭難・・・最後の遣唐使が渡航
842(承和9) 8月 新羅人の入国を禁止
              民間貿易は許す 渤海とは国交続ける
             (大国としてふるまいはじめた新羅への排外思想)


<W>
849(嘉祥2) 8月 唐商人53人が大宰府に着く
             舶来珍品はまず朝廷から(留学僧は唐船利用)
858(天安2) 6月 円珍、修行を終え唐より帰国 みやげは1000巻の経典   
861(貞観3) 6月 新しく宣命暦を採用へ 800年以上使用へ
869          貞観格式
894(寛平6) 9月 内に疫病・凶作、外に海賊 道真の進言で遣唐使を停止
            (民間貿易、通交は続く)
この頃       神仏習合の象徴 薬師寺に八幡三神像本地垂迹説生まれる
901頃       「竹取物語」が完成 永遠の命にあこがれるかぐや姫誕生
            (神仙思想、漢籍・仏典に造詣の深い男性知識人が
            民間伝承をもとに創作か)
905(延喜5) 4月 紀貫之らに醍醐天皇 「古今和歌集」編纂を指示
907         唐帝国が滅亡 東アジアはいっきに激動期へ
            (中国は、70年に及ぶ五代十国時代へ、朝鮮半島では新羅が
             弱体化し後三国の分裂時代に、渤海は契丹国によって滅亡、
             日本では朝廷を震撼させる承平・天慶の乱)
920(延喜20)5月 最後の渤海使帰国の途に
            200年間の国交に終止符(34回)
926        渤海滅亡
927(延長5)12月 便利な行政便覧 延喜式が完成 施行は40年後
            (全50巻 巻1から10が全国の神名2巻を含む神祇官関係、
             巻11から40が太政官八省関係の式、巻41〜49が弾正台
             などの八省以外の諸司の式、巻50が雑式。
              政府による法典編纂は、この延喜式を最後に途絶する)
935         新羅滅亡
936         高麗後三国を統一
972(天禄3)10月 高麗から使者来日 日本政府の外交方針は朝貢以外認めず
            (律令制下の硬直した対応)
982 頃      源高明が「西宮記」をまとめる 朝廷儀式の手引書
1018頃       藤原公任が「和漢朗詠集」を編纂 平安貴族の愛読書へ
              (漢詩文588首、和歌216首)
1019(寛仁3)4月 刀伊軍、博多に来襲 上陸目ざすが大宰府官人が撃退
1045(寛徳2)8月 日宋の交易盛ん 但馬国守が交易品を横領?
1053(天喜1)3月 この世に作られた「極楽浄土」平等院鳳凰堂が落慶
1080(浄暦4)10月 病気を治せなければわが国の恥 高麗への医師派遣を拒否
1094(嘉保1)5月 遼との私的貿易発覚 伊房役職を解任される
1124(天治1)8月 藤原清衡が金色堂を建立 みちのくに極楽を現出
1168(仁安3)9月 中国で、仏法と夢を語り 栄西と重源が帰国
1172(承安2)9月 宋からの贈り物で味しめる 平氏の資金源は日宋貿易
1185(文治1)3月 驕れる者久しからず 平家一門、壇ノ浦でついに滅亡
1191(建久2)7月 僧栄西、宋より帰国 みやげはお茶と臨済宗
1192        源頼朝「征夷大将軍」になる 鎌倉幕府誕生
1232(貞永1)8月 最初の武家法典 御成敗式目51か条を制定
1270(文永7)6月 高麗で三別抄の乱 元日本侵略の陰に高麗民衆の苦悩
             (珍島でモンゴル軍に抵抗 1271日本にモンゴル軍動向、
             平等互恵の関係求める牒状)
1274(文永11)10月元軍、北九州へ来襲 文永の役<おこる
              集団戦法などに日本軍苦戦
1277(建治2)1月 元軍再来の緊張のなか 東寺の長者道宝が異国降伏を祈る
          (   元の使者切捨て異国降伏の祈願盛ん、神国思想おこる)
1281(弘安4)閏7月 元軍ふたたび来襲、弘安の役 
             台風で大半が海のもくずに


<X>
1293(永仁1)3月  3度の来襲に備え 鎮西探題を設置 北条兼時らを派遣
1300(正安2)12月 東大寺領の農民、新夫役を拒否 牛頭宝印の裏に起請文
1301(正安3)11月 元の来寇か!異国船200隻 薩摩の甑島沖に出現
             (元のものか不明)
1318(文保2)3月 「聖主・明君の世」到来?後醍醐天皇が即位
1325(正中2)7月  中国貿易が復活
              蒙古襲来から半世紀 建長寺船の派遣で
1339(延元4・暦応2)秋 「南朝が正統!」北畠親房、陣中で「神皇正統記」を著す
               「大日本は神国なり」)
1341(興国2・暦応4)12月 天竜寺船の派遣決定 後醍醐天皇弔う寺院建立へ
1350(正平5・観応1)2月 倭寇、高麗に侵入2000人の海賊は日朝の海民
1358(正平13・延文3)頃 「神道集」完成 本地垂迹の教義と諸社の縁起あつめ
1368              明 建国
1369(正平24・応安2)  明の国使、大宰府へ 懐良親王 倭寇禁圧を拒否
1377(天授3・永和3)9月 高麗使、倭寇禁圧要請 九州探題今川了俊協力約す
               (高麗との交易開始)
1383(弘和3・永徳3)   琉球三山の抗争やまず 明帝が停戦の使者
1389(元中6・康応1)2月 倭寇の狼藉に怒り高麗軍、対馬へ 倭船300隻焼く
1392(元中9・明徳3)   高麗無血革命 李成桂が王位を獲得李氏朝鮮建国
1394(応永1)7月     倭寇対策推進役 今川了俊、捕虜送還で大蔵経求める


<Y>
1401(応永8)5月    義満、明へ使節派遣
              朝貢貿易で国交正式回復
               (遣明船 入明年 1401(応永8) 祖阿   幕府)
1402(応永9)9月 義満、明の国書をうける
        「璽(なんじ)日本国王源道義」に屈辱的との非難集中
             (1403(応永10) 堅中密 幕府)
              (1404(応永11)      幕府)
             (1405(応永12) 明室楚亮 幕府)
             (1407(応永14) 源通賢  幕府) 
1407(応永14)8月 明使節、義満と会見、
         日明貿易は「宝の山」 勘合貿易で幕府の経済基盤確立
1408(応永15)6月 南蛮船、小浜に来航 
         北陸の港町に(北陸の港町も東アジア交易圏に)
              (1408(応永15) 昌宣   幕府)
              (1410(応永17) 堅中圭密 幕府)
1411(応永18)9月 義持、明の外交使節の入洛許さず 国交中断で幕府財政は?
1416(応永23)  今帰仁(なきじん)城が陥落、琉球で山北国滅び中山国による統一すすむ
1419(応永26) 6月 朝鮮軍、対馬を急襲< 倭寇への報復 応永の外寇(日本斬首114人、朝鮮戦死者百数十人)
1420(応永27)4月 宋希mが来日 三毛作に驚嘆しつつ日朝関係の修復はかる
1426(応永33)   「三浦(さんぽ)の制」交易は3港で(1510年の三浦の乱まで日朝貿易全盛)
1429(永享1)    尚巴志、琉球を統一
             海外貿易を独占し黄金時代へ(明、日本、東南アジアの貿易中継基地)
1432(永享4)8月  義教、日明貿易復活求め通行船派遣 経済効果もとめ大名・大社寺も参加(この後10年一貢で計10回の遣明船)
              (1433年(永享5年) 龍室道淵 幕府・相国寺・山名氏・大名寺社十三家・三十三間堂)
1434(永享6)9月  幕府主導の遣明船最後の船出 貿易は大名・商人の手に
             (1435(永享7) 恕中中誓 幕府・相国寺・大乗院・山名氏・三十三間堂)
1443(嘉吉3)    宗氏と朝鮮 嘉吉条約 貿易船は年50隻に(平和外交ピーク)
1453(享徳2)3月  史上最大の遣明船団 9隻1200人が五島を出帆
              (1453(享徳2) 東洋允澎 天竜寺・伊勢法楽舎・聖福寺・大友氏・大内氏・大和多武峯)
1457(長禄1)5月 西蝦夷地でコシャマインが蜂起、武田信広、鎮圧で地盤固め
1467(応仁1)   応仁の乱勃発
              (1468(応仁2) 天與清啓 幕府・細川氏・大内氏)
1469(文明1)8月 帰国の遣明船 瀬戸内の兵火避け 土佐に投錨、堺へ向かう(以後、兵庫湊にかわり堺が隆盛に)
1470(文明2)12月 「海東諸国記」完成、朝鮮の申叔舟,善隣外交の規範示す
1477(文明9)    応仁の乱終結
              (1477(文明9) 笠芳妙茂 幕府・相国寺勝鬘院船)
             (1484(文明16) 子璞周璋 幕府・朝廷)
             (1495(明応4) 尭夫壽黄 幕府・細川氏)
1480(文明12)7月 一条兼良、将軍義尚に政道書 「樵談治要」に和学の精髄込め
1484(文明16)11月 吉田兼倶、斎場を造営 唯一神道をかかげ全国の神社に影響力
1500(明応9)   太陽王尚真、琉球諸島を統一 海洋王国に黄金時代!
1510(永正7)4月 在留邦人が三浦で蜂起 日朝貿易、断絶の危機
             (1511(永正8) 了庵圭吾 大内氏 )
              (1511(永正8) 宋素卿  細川氏)
1512(永正9)9月 朝鮮・対馬宗氏 壬申約条締結 日朝関係2年ぶりに正常化
1523(大永3)4月 遣明船勘合符争奪戦、海外にまで 大内・細川が寧波(にんぽー)で激突
             (1523(大永3) 宗設謙道 大内氏)
             (1523(大永3) 鶯岡瑞佐 細川氏)
             (1540(天文9) 湖心碩鼎 大内氏)
1543(天文12)8月 鉄砲、種子島に伝来</span> 戦術を一変させた新兵器(ポルトガル船)
1547(天文16)2月 大内義隆、遣明船の法度を制定 最後の使節が山口を出発
1549(天文18)7月 日本にキリスト教伝わる ザビエル、鹿児島に上陸
             (1549(天文18) 策彦周良 大内氏)
1550(天文19)8月 洗礼者は100人に ザビエル、平戸で布教(領主松浦孝信 ポルトガル貿易に期待)
1550(天文19)6月 最後の遣明使が帰国 1世紀半の歴史に幕


<Z>
1552(天文21)  大陸沿岸に倭寇が猛威 密貿易の主力は中国人(室町幕府の衰退で活発化、明の海禁政策による弾圧で海賊化)
1555(弘治1)5月  朝鮮半島沿岸に脅威!倭寇の70余隻 達梁浦を襲撃(頭目王直 東シナ海の倭寇の猛威ピークに)
1557(弘冶3)11月 倭寇の頭目 王直 ついに捕縛(ここ3年200回以上も中国大陸、朝鮮の沿岸襲撃)
1560(永禄3)1月 義輝、宣教師ビレラに京都での布教を許可 ザビエル以来の宿願
1562(永禄5)6月 ポルトガル船、横瀬浦(長崎県西海町)
1568(永禄11)9月 信長、足利義昭を奉じて入京 全国統一へ確かな足どり
1569(永禄12)4月 信長、宣教師フロイスに京都での布教を許可
1571(元亀2)9月 信長、比叡山焼き討ち  聖俗4000人を殺害
1574(天正2)9月 長島一向一揆無惨!2万余の男女、焼き殺される
1579(天正7)7月 イエズス会総長代理バリニャーニ来日 布教方針を改革(日本をインド教区から分離、下・豊後・都の3教区設置)
1580(天正8)  安土にセミナリヨ 和洋の教育で聖職者を養成(信長許可、援助)
1582(天正10)1月 天正少年遣欧使節 ポルトガル船で長崎を出帆
1582(天正10)6月 本能寺の変
1584(天正12)5月 秀吉、比叡山延暦寺の再興を許可
1587(天正15)3月 秀吉、九州征圧に出馬 兵力25万人を動員
1587(天正15)6月 キリシタン禁令発布 宣教師に帰国命令 貿易も絡み不徹底
1588(天正16)7月 刀狩令・海賊停止令が出る 武士は武具、農民は農具を(秀吉、外交交易の独占図る)
1589(天正17)8月 宗義智、朝鮮滞在2ヶ月 国王に謁見し通信使派遣を要請(秀吉の指示)
1590(天正18)11月 朝鮮通信使、秀吉と会見 帰国報告で兵禍を予見
1591(天正19)閏1月 天正遣欧使節、逆風の中帰国 聚楽第で秀吉に謁見(インド副王使節として)
1591(天正19)6月 朝鮮、宗義智交渉するも明との仲介拒む
1591(天正19)10月 名護屋城築城開始、「唐入り」本営に
1591(天正19)8月 身分統制令発布、秀吉、明出兵前に兵農分離を徹底(「唐入り」目前に、武家奉公人や年貢を確保図る)
1592(文禄1) 4月 文禄の役はじまる 小西・宗の第1軍、釜山に上陸
1592(文禄1)    秀吉、異国渡航の許可状8町人に 朱印船貿易始まる(コーチ・トンキン・安南、カンボジア、シャム、ルソン)
1593(文禄2)11月 朝鮮の役は「やきもの戦争」、秀吉、職人の捕虜を要求
1593(文禄3)11月 高山国に入貢要求、原田孫七郎 秀吉の使者となる
1594(文禄4)9月1 太閤検地、いよいよ本格化 島津義弘領手始めに
1596(慶長1)12月 キリシタン弾圧で初の殉教者 長崎の丘に26の十字架(スペインの領土的野心を疑う)
1596(慶長1)9月 明帝の国書に怒り、秀吉、再出兵を決意
1597(慶長2)2月 日本軍、再び朝鮮へ 慶長の役の陣立決まる
1597(慶長2)7月 大阪城に象来る ルソン提督使節プレゼント (スペイン人船長ファハルド、謁見)
1598(慶長3)8月 秀吉、死去


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1600(慶長5)2月  朝鮮との国交修復の第一歩 小西行長らが捕虜160名を送還
1600(慶長5)3月  オランダ船リーフデ号、豊後に漂着 ウィリアム・アダムズら救助される

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