広島県庄原市比和町 訪問
(08.11.23 訪問)(08.11.30訪問)

庄原市比和町の山「福田頭」に登った際、ここらあたりも昔はたたら製鉄が盛んだったに違いないと登山口で農作業をしている方にお話を聞いた。たたら製鉄は山を越えた森脇地区が中心だったとのこと、またこの谷、井西谷(いざいだに)の奥でもたたら製鉄が行われていたとのことであった。かっては、たたらの集落もあった。たたらの人の無縁仏の墓がある。以上のようなお話であった。

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(井西谷のかなくそ)
一ノ滝手前の登山道で、かなくそを見つけた。

かなくそ
右のかなくそは、左半分が土

(聞き取り)
井西谷入口の民家の方に、たたら製鉄のお話を伺った。
1)この谷の奥で、かってたたら製鉄がおこなわれていたと聞いている。また、水を流して砂鉄をとることも行われていた。
2)子供のころは、川にかなくそがあったが今は見かけない。台風の後、上流から流れてくる。
3)無縁墓のことは知らない。

(資料調査)
このあたり一帯では、かって鉄穴流しが盛んに行われていた。


比和町の鉄穴流し跡地 (斜線は、鉄穴流しによる地形改変場所(航空写真による) 
出典「中国地方における鉄穴流しによる地形環境変貌」 貞方昇 渓水社 資料2 鉄穴流し跡地区分図 P113 部分)
ゴシック文字はTKN記入


江川流域における明治前半期の砂鉄採取場分布
『鉱山借区図(1873〜1883)』(大橋 博、1961)に基づく。
河川における採取地を含む。図中の境界線は、1899年当時のもの。
出典「中国地方における鉄穴流しによる地形環境変貌」 貞方昇 渓水社  P 122 部分)

比和、森脇地区に多くの砂鉄採取場があったことが分かる。

(古家真屋敷跡)
比和町HPによると、森脇地区にはたたら製鉄で栄えた名越家があったとのこと。その屋敷跡が「古家真屋敷跡」として残っている。立派な石垣に囲まれた屋敷跡で、跡地に立つと当時の繁栄が偲ばれる。

古家真屋敷跡 その1 正面入口から見る


古家真屋敷跡 その2 正面入口から上がり、右側を見る
石垣は、後ろの山の土止め
左側を見ると、屋敷跡の礎石らしいもの、井戸などがある(写ってはいない)

(比和町森脇、上八川(かみやこう)地区の鉄穴流し跡地)
「中国地方における鉄穴流しによる地形環境変貌」(貞方昇) によれば、吾妻山休暇村の西にあたる上八川地区では、大規模に鉄穴流しによる砂鉄採取がおこなわれ、跡地がよく残っているということで訪問した。しかし、現在は植林された木が大きく育ち崖状の地形が目立つほかは当時の様子を感じさせるようなものはなかった。


鉄穴跡地と思われる崖状地形
写真左に谷川があり写真手前から奥に向かって流れている
このような崖は、いたるところにある


吾妻山休暇村北側の鉄穴跡地
写真中央にかって鉄穴流しに使われたと言われている池が見える。

備後のたら製鉄は、備中のそれを大きく上回っていた。鉄穴流しについても、これまで備中で見てきたものは谷川上流部の両岸を削り取る程度の規模であった。しかし、備後であるこの比和地区で見たものは山全体を削り取るもので規模が全く違い、格段に大きい。備中が「線」であれば、備後は「面」と言ってもよく、山全体の形を変えてしまうという形容は、備後での鉄穴流し跡地を見て初めて実感できた。

参考


(08.11.25)(08.12.1)



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