新見市神郷町 釜村地区 現地訪問(2) (07.12.21訪問) −−−−−−−−−−−−−−−−−− 釜村地区の近世たたら操業について、「岡山県史(近世U)」に、記述がある。 第三節 鉱山業 一近世の鉄山業 「新見藩・松山藩の鉄山経営」 「新見藩が経営した鉄山は、久坂山鑪(哲多郡釜村、現・神郷町)・国広山鍛冶屋(同上)・三坂山鍛冶屋(同上)・安明地山鑪(阿賀郡上熊谷村、現・新見市)である。」(P403 ) 「新見藩で注目すべきことは哲多郡釜村の鉄穴を藩が支配して、採取砂鉄に対して山手料と言う名目で藩が何割かを収得しているのである。藩営鉄山がおこなわれていた頃から実施されていたとみてよいが、1860年(万延元)まで続けられたのである。1855年(安政二)の例では、田口中場鉄穴では・・・」(P404) 1)三坂山鍛冶屋 天銀山の北西ふもとに三坂地区がある。資料で言う三坂山の地名場所は不明だが、三坂という名前が同じなので地区の方に、このあたりにたたらに関係した場所はないか尋ねたところ、かってたたら操業がおこなわれていた場所があるとのことで連れて行ってもらった。場所は、三坂地区の南東の谷(「いや谷」)の奥である。 現地 金くそ 上部の写真位置の奥の斜面一面に散らばっている。こんなに、たくさんある場所は初めて見た。 金くそのほかには、たたら製鉄 あるいは 鍛冶作業を示すものはない。三坂地区のここに、金くそが散在していたというだけで、資料にいう「三坂山鍛冶場」がここであるという証拠はない。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 2)田口中場鉄穴(たぐちなかばかんな) 三坂地区、大忠地区の北東に田口地区がある。土地の方にお話を伺った。 @「中場」地名は、田口では聞いたことがない。 Aかって、田口地区から大忠地区にかけて広がる高原状の地域(「なる地形」)は、牛の放牧場であった。昭和40年代まで(?)。 今は、植林されているが昔は、柵で地区ごとに仕切られた牧草地であった。かっては、そこで穴を掘って砂鉄採取をおこなっていたようだ。掘った穴、かんな流しの水路があった。今は埋まったり草が茂ったりしてわからない。 以上のようなことであった。 田口中場鉄穴の場所の特定は出来ないが、田口地区から大忠地区にかけて広がる広い「なる地」全体を言うのかも知れない。 (07,12,23) 3)釜村鉄穴井手 「新見市史」に松山藩の鉄山業について、詳しい記述がある。(P186〜200、P262〜284) 花見村、千屋村、釜村、井原村の鉄穴流しの水路(=井手)図が掲載されていた。現地踏査の記録のようだ。「中場」は田口にあった井手のひとつに付けられた名前のようである。 また、大忠の池で見た水路は鉄穴流しの跡ではなく谷川のようである。 釜村鉄穴井手の図 (「新見市史」(P271)) (07.12.29) |