新見市千屋実 井原、市場地区 現地訪問
(08.2.29、08.5.23、08.6.2訪問)

千屋実 井原地区、市場地区にて たたら関係のお話を地元の方に伺った。

1)井原地区で聞き取り
@扇谷は、千屋スキー場の東側の谷を言い、たたら集落があったようだ。たたらに関係するお墓もある。(扇谷山鉄山:藩営鉄山)
Aさらに奥の蓬谷でも たたらが盛んであった。蓬谷には、「ちゅうたぼら」、「たてぼら」、「ふるぼら」と名前のつくカンナ流しの土砂採集跡がある。
「ほら」とは、カンナ流しで土砂を取った跡に出来たへこんだ地形の一般名で、ここらあたりに山にはたくさんある。
B井原地区の田は、カンナ流しの土砂で出来た。以前に、井戸を15m以上掘ったところ、下からわらの層が出てきた。水は金気が強かった。
Cカンナ流しの水路跡もある。山の斜面を横切った水路を「横手」と言う。横手を作るときは、竹筒を半分に割ったものに水を充たし、其の水面を目の高さにして遠くを見通し、離れた地点のレベル(水準)を見たようだ。私が、田を作るとき田の水平面を図るのに実際にそのようにしていた。昔から伝わるやり方だ。
D川を挟んだ向こうの地形は「水の小畑」(*)という。カンナ流しで出来た地形だからか。(*は、TKNの聞いた名称)
E私が、子供の頃は小川で砂鉄をすくって「カンナ流しごっこ」をしていた。黒い砂鉄が採れ、磁石に付けて遊んだ。
F金屋子神に関係した場所が向かいの山の中腹にある。今はたたらとの関係は忘れられつつあるが、今でも集落の人が寄って祭礼をしている。
G井原地区には享保の飢饉を救った義人として「こびらの五郎助」、「きたにの平八」の言い伝えがあり、集落の上と下に祠をたてて祭っている。
彼らは、たたら関係の人。(この話はまた別途調べよう。TKN)

木谷原平八、小平五良助

 千屋村井原の農民なり。伝記詳ならずと雖も民間伝うる処によれば、享保の飢饉にあたり地の庄屋部民の困絶をも顧みず、賦斂の過酷なるより、平八・五良助の両人主唱して強訴を起こして遂に刑せらるヽ所となれり。庶民之を徳とし、其の事を録するをば畏憚し氏名のみを記して、井原村の上下二ケ所に碑を建て之を頌したりと。大正の御代に至り其の草叢中に湮没する所とならんことを恐れ、井原の地に義民塚を建設せり。其碑石に録せるもの次の如し。
   享保義民木谷原平八記念碑
         小平五良助
    大正二年四月吉日
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以上、「阿哲郡誌」(P855)抜書き。
詳ならずと雖も(ツマビラカならずとイエドも)、賦斂(フレン:租税を割り付けて取り立てる)、畏憚(イタン:恐れはばかる)、頌したり(ショウしたり:徳をたたえること)、草叢(クサムラ)、湮没(インボツ、エンボツ:うずもれ沈む)

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(井原地区の村芝居)
井原地区では、20年も30年も前から集落の皆さんによる「村芝居」が、なされているとのこと。昔のことで、今はもうやってないんでしょう?と尋ねると、「いやいや、今の若いもんにもやりたいと言うものがいて今も続いているよ」とのこと。メイキャップも、衣装も自前とのこと。近隣に名を売っている「井原村の村芝居」。一度、見てみたいものだ。

下は、かって上演された平八(たたら山内者)、五郎助(庄屋)の物語。「井原村享保義民塚の由来」。
台本を頂いた。登場人物 約30人、舞台六幕二場の本格的なもの。

 
左) 台本表紙                    右) 第一幕 部分 


たくさんの話を、地区の方の家の縁側でお聞きした。寒い中、ありがとうございました。
この方は、写真が趣味との事。作品を見せてくださいとお願いすると、「私のは、写真を撮りに行くのではなく、シャッターを押しに行くだけ!」


井原地区の向かいの山
村有林は、昔は雑木林だった。
私有林は、植林される前は放牧地で木はなかった。毎年、山焼きをした。
山火事になるでしょうと聞くと、そこが腕の見せ所。3mの防火地帯を作っておき上から順々に焼くんだよ、とのこと。)


井原地区の広い谷、田

2)市場地区での聞き取り
@太田辰五郎の屋敷は、石垣、堀が残っている。
A市場から東に入る大きな谷全体を実谷(さねたに)と言う。実谷の支谷に「空原(からはら)」、「にかしょ」があり、たたらに関係している。
特に、「にかしょ」では、たたら製鉄がおこなわれており、金糞が散在している。
B市場地区には「村下師」、「鍛冶師」を屋号にしている家がある。
C金屋子神関係では、「あたごさん」と呼んで、山の上に火の神を祭っている。(市場から、祠が見える。)
D「いおさやま」という名称は、聞いたことがある。場所特定できない。
E千屋地区では、田はさほど広くはないが食べるのには困らない程度の広さ(4〜7反)を持ち、そのほかに「たたら、カンナ稼ぎ」、「林業」、「牛放牧」で稼いでいた。

市場にある、橋(たむら橋)の上で長くお話を伺った。市場は、川筋の両側に連なる市街地といえるほどの集落である。昭和40年代まで映画館、パチンコ屋もあったとのこと。今も、商家風の家の連なりに往時の隆盛をしのばせる。


(08.3.1)(08.5.27)(08.6.9)




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