鉄穴流しによる砂鉄採集方法

以前から、江戸期、鉄穴流しの砂鉄採集がどうおこなわれていたのか気になっている。島根の羽内谷のような精緻な仕掛けでおこなわれていたのか、それとも「日本山海名物図会」に示すように川にむしろを敷いて採集したのか。羽内谷の仕掛けは精緻すぎるし、むしろを敷いてそのむしろに引っかかった砂鉄を取る方法はあまりにもお粗末で効率が悪いように思える。
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1)日本山海名物図会

「近世たたら製鉄の歴史」(編著 雀部 実・館 充・寺島 恵一 丸善 2003年)から。


日本山海名物図会(宝暦四年: 1754年)・・・川の右側4人の足元に川に敷いたむしろの端が出ている。
左の2人は、新しいものか、砂鉄を含んだものかは不明だがむしろを運んでいる。(TKN 注)

「鉄山の絵
鉄は掘出したる土ながらに水に流して鉄を取るなり、あさき流川にむしろをしきその上へほりだしたる山土をながし
見れば鉄はむしろの上にとまり土はみな流れ行くなり、○石見・備中・備後の三ケ国おおく鉄あり、・・・・・・」
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2)羽内谷 鉄穴流し方法


羽内谷 鉄穴流し遺構
石塚尊俊氏調査

「近世たたら製鉄の歴史」より 鉄穴流し方法 抜書き  P78-79
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「 羽内谷でももちろん水源である溜池は遥か山上にあるはずだが、古くから水が涓涓と流れ落ちてやまず、「溜池」という意識はここでは薄かったようである。砂鉄を、山から切り崩し、この水流に落とし流す場所を「鉄穴山(かんなやま)」と呼ぶが、選鉱の中心である「下場」はそこから約1km下ったところにある。この下場は大きくは3つのブロックに分けられるが、第1のブロックが約100mにおよぶ「砂溜め」と呼ばれる部分で3つの堰で区切られている。各堰にはクダ板と称する7,8枚の板がセットされており、その板を調節することによって砂鉄まじりの土砂を溜めたり流したりできる。第2ブロックは長さ約35mで、2つの同じ構造の仕切りをもち第1、第2「出切り」と名付けられている。そのさらに下流が第3のブロックで、ここは4つに仕切られ、その1つ1つの池に「大池」「中池」「乙池」「樋」という名が付いている。長さは大池が20m、中池が14m、乙池10m、樋8mで合計52m。以上が主流だが、別に「足水(あしみず)」と呼ばれる給水路、逆に濁水を落とす「川」が平行して走っていて、水を足したり不要な水を捨てたり自在にできる。こうした大規模な一種の水槽を使って。逐次砂鉄の品位を高めていくわけだが、第1日目は朝から夕方までかけて。上から流れてきて「砂溜め」にたまっている砂鉄まじりの土砂を。クダ板と川と足水を巧みに使いながら第2出来りのところまで流す。これによって、舞い上がった土砂のかなりの部分が川へ落ち、黒々とした砂鉄が相当ましているはずである。第2日目は第2出切りのクダ板を外し、足水を足しながら前日来溜まっていた分を大池まで流す。約20分の1の傾斜をもっている大池では柄振(えぶり)などを使って水中の砂を舞い上がらせ、足水の力も借りながらそれを川のほうに落とし砂鉄をできるだけ濃縮する。この作業を3時間続け、次にクダ板を外してそれを中池へ導く。ここでも同じような作業をすること3時間。この間に製品としていいものは部分的に掬いあげる。3日目の仕事は、中池のクダ板を外して砂鉄を乙池に移すことから始まる。そして、2、3時間、足水を入れ柄振で流してやると土砂分は下の樋に落ち、乙池の中は砂鉄ばかりになる。つまり「大池ではもっぱら砂をとばし、中池では砂をとばすと同時にその良い所をすくい上げ、最後の樋で滓ざらいをするという次第」(石塚尊俊:砂鉄採取(菅谷鑪)、島根県教育委員会(1968)、P19〜25) である。
 こうして砂鉄品位8%の原砂は85%の砂鉄に仕上がるのである。
 図2.10はこれらの細部を逐次拡大しながら図で示したものである。
 では、こうした鉄穴流しはいつごろ、どこから流伝して来たのであろうか。文献史学の教えるところでは、
 「この方法は戦国末期中国山地で開始されたものと思われ、戦国大名毛利氏は、家臣給付の対象に組み入れている。」(東城町史編纂委員会:東城町史第二巻 備後鉄山資料、東城町(1991)、P144)
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3)阿哲郡誌の鉄穴流し方法記述

阿哲郡誌(上) /阿哲郡教育会 昭和4〜6年/復刻版 昭和51年
第4節鉱物 四、鉄山 P165〜170 より 抜書き
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四、鉄山
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新郷・千屋・上刑部・菅生・矢神の諸村にては明治の中頃まで、冬季農家の副業としてカンナ流しと称して砂鉄を多量に含める花崗岩の風化分解せる、砂質土壌の山を掘り崩して之を水簸し砂鉄を採取せり。今や良質にして廉価なる洋鉄の輸入により、かかる姑息の方法は到底拮抗すべからず。今や衰頽廃滅只僅に其残址を見るにすぎずと雖も、本郡として主要なりし産業たりしを以て左に之が方法を詳記せん。
四、鉄山
(一)砂鉄採収方法
山中に貯水池を設けて、溝渠をもって之を鉄穴(カンナバ)と称する処に導き、山土を掘り崩したるを其水にて流し、之を砂溜(スナダメ)と称する池に導入し、其出口には管(クダ)と称する角材を積み重ねて砂を其中にため、池に満つる時は其管を一本づつ上より取り除きて、中池に流入せしむ。此時軽き砂は流れ、重き砂鉄は池底に沈む。然れども中池にては砂鉄よりは砂多し。更に中池に満つる時は中池の出口の管を除きて、季池(オトイケ即末の池の意)に流下せしむること前の如し。中池及季池に砂をためる時には、エブリと称する某の先に三角形の板を附したるものを以て、常に其の上をすり均らすものなり。季池にては砂鉄にては砂鉄の量半に達するに至る。溜池最も大にして季池小なり。

以上の作業を終りたるものは、樋(ひ)と称し底面及側面を板を張り、長三間巾四五尺深二三尺の溝渠に導き管を用いて之れを溜め然る後砂鉄を清水にて洗う。此時洗鍬(アライクワ)と称する、方形の鍬にて攪拌しつつ洗えば砂は流れて鉄は沈積す。樋の上流に沈堆するものは上等品にして、下方にたまるものは比重の軽きものにてオコと称し二等品なり、中池及季池より流出せしめたる砂の中に、尚若干の鉄を混有するを以て前の方法と同様の方法によりて、砂鉄を採取す、之れを一番落と云う。更に下流に於て此方法をくりかえすを二番落と称す。尚下流に流出せる砂の中にあるものを、川中に堰を設けて砂溜に導き水簸して砂鉄を採集するを川砂と称す。
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4)「近世たたら製鉄の歴史」の羽内谷鉄穴流し方法(A)と、阿哲郡誌記述の鉄穴流し方法(B)との比較。(TKN 記述)

阿哲郡誌の記述は、昭和初期に 江戸期、明治期におこなわれた鉄穴流し方法を記述したものである。
「近世たたら製鉄の歴史」の記述は、1971年(昭和47年)まで稼業されていた鉄穴流し設備の方法を、1968年に記述したものである。

設備
(A)
砂溜、出切り、大池、中池、乙池、堰 が一本につながり主流を成す。
平行して足水(清水)の給水路、濁水を落とす「川」がある。
大池以降は3本の流れが平行する。

仕切り(クダ板)は7,8枚。板状。

(B)
砂溜、中池、季池が 流路により一本につながり主流を成す。季池の下流に樋がつながる。
清水供給水路が、樋入り口まできている。
流れは一本。濁水を流す(A)でいう「川」はない。

仕切り(管、クダ)は、角材積み重ね。

方法
(A)
1日目
砂溜めでは、砂鉄、濁水は同じ流路を流れる。クダ板の調節で上澄み濁水のみ下流の砂溜めに流す。
第4砂溜めの濁水は、「川」へ流される。
第1出切りでは、濁水流出が出来る。第2出切りでは、濁水流出と 清水供給が出来る。

2日目
大池、中池で 清水流入、濁水流出を使って 砂鉄濃度をあげる。

3日目
乙池へ、砂鉄まじり土砂を流し込み 清水を加えて攪拌する。砂鉄を含まない濁水は仕切り板を越え、樋に流れそのまま下流へ流れ出る。
乙池では、底の砂鉄をすくう。

樋に流し込んだ砂鉄大半の土砂は、清水で土砂を洗い落とし、製品砂鉄とする。

(B)
砂溜めへ砂鉄まじり土砂を流入させ、上澄み濁水を下流に流して底に砂鉄を溜める。
中池、季池 でも 同じことを行い、砂鉄濃度を高める。

砂鉄交じり土砂を樋に導き、清水を加えて上澄み土砂を下流へ落とす。樋の底に沈殿した砂鉄混じり土砂を製品砂鉄とする。

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5)鉄穴流し方法について(TKN 記述)

3本の流れを持つ鉄穴流し方法は、大佐町史に記述がある。本流、澄水井手(すみずいで)、捨川(すてがわ)とそれぞれに名前があるということなので、この方法も江戸期にあったようだ。
東城町史に言う「鉄穴流しが戦国時代末期に始まったとする」記述は本当かも知れないが、方法としては「日本山海名物図会」のような「むしろ」を使ったシンプルな方法であったと思われる。

いつごろ、どこで 鉄穴流しの方法が発展していったのか、その技術がどのように伝播していったのか 興味は尽きない。

(08.4.26) (08.4.27 追記)




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