鉄穴流しによる砂鉄採集方法(その2)

江戸期の文書、絵巻に示された鉄穴流しの方法を示す。
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1)芸藩通志 (文政8年:1825年)
(出典 「新見市史 通史編 上 P883)
「採鉄の業は秋彼岸入より、翌春の彼岸末を限る。(中略)採鉄の法まず其の山へ水手をつけ置て山を掘るべし、水力にて砂鉄を流し出す。流し口より下に大池中池乙池の三所を兼てまうく、泥水は浮き流れて砂と鉄を相交るもの底に留るを大池より次第に洗ひ流して乙池にて製す。製し方はかの砂交るを、乙池の槽へ少しづつ入れて、上より洗水をかけ、杁(えぶり)にて幾度もおしあぐる時は砂軽くして流れ去り、鉄は重くして留り、黒鼠色になりたるを取収るなり。洗ひよきは鉄八分、砂二分となる。」

流れは、砂鉄土砂の流れる本流が一本のようだ。最後の乙池で洗水(清水)をかけ、底に溜まった砂鉄をとる。濁水を流す流路のことは述べられていない。

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2)先大津阿川村山砂鉄洗取之図 (幕末期 1830〜1860年頃)
東京大学大学院工学研究科所蔵
本図は、財団法人 JFE21世紀財団 発行の「たたら 日本古来の製鉄」(2004年発行) から作成。

上流より、溜め池、鉄山(土砂採取地)があり、堰により仕切られた池が5つある。最下流の洗い池の出口には積極的な堰はないようだ。流れは、本流が一本あり、第1の堰の上流部下側に「足水池」がある。足水池の水の流路は特に書かれていないため、足水を第2、3、4、の堰まで流しているかどうか不明。
濁水を流す流路は、ないようだ。



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「芸藩通志」は、広島県、「先大津阿川村山砂鉄洗取之図」は山口県での砂鉄採取の様子を示す。時期はどちらも江戸幕末期。どちらも、本流が一本で 足水を使用しているが、濁水排水の専用流路はなく、本流で流している。
このほかに、六の原の鉄穴流し遺跡調査、大佐町史の鉄穴跡調査がある。どちらも、複数の並行する流路があるとのこと。

砂鉄採取の方法の分類の試み。
第1段階  川の自然の淀みから砂鉄をすくい取る
・・・・・・・  川に莚を敷いて砂鉄をとる。(日本山海図会)
       第1段階 とする。莚は、単に砂鉄を川底からとりやすくしただけと考える。
第2段階  川に積極的に淀み、池を作って 底から砂鉄をすくい取る。
第3段階  川に堰を設け、池を複数作って、最下流池で砂鉄を取る。
第4段階  更に、足水(清水)を供給する流路を作る。本流+足水供給水路、(芸藩通志)(先大津阿川村山砂鉄洗取之図)(阿哲郡誌)
第5段階  更に、濁水を流す流路を並行して作る。本流+足水供給水路+濁水排水流路、(羽内谷 鉄穴流し)

(08.5.5)




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