阿哲畜産史に見る芋原集落の繁栄(その1 江戸期 安政年間) 阿哲畜産史(阿哲畜産農業協同組合 昭和30年9月)は、鉄山業について詳しい。 参照 新見市 芋原地区 現地訪問(08.4.30訪問) −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 阿哲畜産史 第二編 江戸時代 2 駄馬の部 第一章 概説 (P59)の冒頭 「我国では昔から馬は東・牛は西という概念ができておったが、牛の産地である西の中国山脈を中心とする石見・出雲・伯耆の諸国と、南の安芸・備後・備中・美作の山地一帯は馬の産地であった。 これは中国地方の山村に馬を必要とする鉄山業が勃興したために、馬の生産が盛になり、馬疋の数が増加した。しかし馬の生産が盛になったといっても。馬の生産を目的に馬を飼育するというのではなく、鉄山業に寄与するに必要な数の駄馬を生産したことで。馬を生産してこれを商品とする畜産が発達したというのではなかったことである。」 (P66) 「新見藩釜村得分の砂鉄大口売先概略表
新見藩直営鉄穴の砂鉄生産高得分である、この額と同じだけの民間の得分がある。この外にも釜村には民間の鉄穴口がある。 釜村と菅生村とは別に交通のない所であるが砂鉄が越す駄馬は1日平均10頭が1年間あることになる。 千屋村とはすべて交通の多いところであるが砂鉄駄馬1年中1日平均11頭も往来した。鉄木炭の荷物運送で山の中に網の目のように交通路が発達したものである。 上市村舞尾山鑪へは雲伯往来で三坂峠をを越して芋原内草の線に通るのである。村内の久栄山竹の谷山鑪と村内の往復で。この外に民間のものが同量以上運送される。嘉永3年同6年は天保申作飢饉と同程の飢饉で、安政4年は冷害で平年作の3分作であった。それで5年は食料不足で粥米がなくて死ぬものがあった。そういう年柄でも砂鉄の生産は冷害も旱ばつもない。馬子稼は日々あった。北部の農民は鉄山工業によって。生きて行くことができた。働く仕事のある人間ほど幸福なものはない。」 (下線は追加) 砂鉄運送路図(阿哲畜産史 P67) (09.4.14) |