高梁川本流域の鉄穴流し (油野地区 宮ノ谷川) 

(油野地区 宮ノ谷川の鉄穴流し)
三室地区訪問の際、三室川支流の宮ノ谷川上流で鉄穴流しが行われていたとの情報を得た。
資料で、この地域での鉄穴流しの歴史を調べた。

油野地区での確実な鉄穴流し稼業の記録は安政4年(1857年)に2口、明治5年(1872年)、明治7年(1874年)では1口で、多くない。宮ノ谷川上流での鉄穴流しは、安政4年から明治初頭の鉄穴流し1口に該当するものであろう。
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高梁川本流域の鉄穴口数 (出典「中国地方における鉄穴流しによる地形環境変貌」 貞方昇 渓水社 P96 )
旧郡藩領近世村
1776
(安永5)
1839
(天保10)
1846
(弘化3)
1857
(安政4)
1872
(明治5)
1874
(明治7)








実   村
成 地 分
花 見 村
山 奥 村
大井野村
2
6
4
 
 
1(1)
4
5
1(1)
1
5
11
13
1
1
  2
8(4)
9(3)
1(1)
3(3)
3
6
11
1
 




井 原 村
菅 生 村
田活部村
5
 
 
4
 
 
9
10
 
  10(3)
14(2)
2(2)
17
12
 


千 屋 村
釜   村
5
2
2
4
7
12

13(8)
11
6
3
松山
油 野 村
上神代村



2
14(5)
1(1)
22(2)
1
10
 合      計 2422(2)6916(5)96(29)72
 引 用 文 献 4)5)3)3)4)6)
()内は休業中                  赤木祥彦氏調を一部改変
3)藤井 駿・加原耕作 『備中湛井十二筒郷用水史』 湛井十二筒郷組合、 1976、676-679、712-713頁。
4)元正院地誌課編 『日本地誌堤要』 臨川書店、1982、321頁。
5)加原耕作 『備中浜村一件 −高梁川筋における鉄穴稼と濁流問題−』 藤井 駿先生喜寿記念会編
  『岡山の歴史と文化』福武書店、1983、384-404頁。
6)小田県 『小田県史』 日本文教出版、1971、111-117頁。

「高梁川の場合、江戸時代に村毎の鉄穴の数が分かるのは1776(安永5)年、1839(天保10)年、1846(弘化3)年の3回だけである。このうち、前2者の場合、稼行中の鉄穴だけであり、新見藩の菅生村と松山藩の村々は欠けている(加原、1983)。」
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宮ノ谷の鉄穴流し
小田県史に、油野村宮ノ谷で鉄穴流しの許可をした文章があった。

「明治七年 甲戌三月願 備中国哲多郡油野村字宮ノ谷
 一、鉄穴口一ヶ所   木下三郎平
右者同年六月十五日借区許可坪数百四十坪       」
(出典:「小田縣史」(昭和17年発行)/昭和46年復刻発行 日本文教出版(株) P116)

(08.12.12)

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鉄穴流しによる地形改変場所(航空写真による) 
出典「中国地方における鉄穴流しによる地形環境変貌」 貞方昇 渓水社 資料2 鉄穴流し跡地区分図 P91 部分)
ゴシック文字はTKN記入

上図にても、油野では宮ノ谷川上流域で 鉄穴流しが行われていたことが推定される
この場所は、08年9月に山歩き途中で通った場所。現在は、国有林伐採で作業道が縦横に造成されており地形はかなり変わっている。今回(08年10月)予定の鉄穴流し水路跡探索は、もっと下流なので水路跡が残っていることを期待している。

(08.10.8)



岡山のたたら製鉄

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