阿哲郡における近世、明治、大正期のたたら操業の記述

出典  阿哲郡誌(上) /阿哲郡教育会 昭和4〜6年/復刻版 昭和51年
第4節鉱物 四、鉄山 P165〜170
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四、鉄山
本郡古来多く砂鉄を産せしことは、吉備の枕詞に真金吹くの語あるにても知るを得べし。
・・・・・・・殊に新郷・千屋・上刑部・菅生・矢神の諸村にては明治の中頃まで、冬期農家の副業としてカンナ流しと称して・・・砂鉄を採収せり。・・・・・

(一)砂鉄採収方法
山中に貯水池を設けて、溝渠をもって之を鉄穴(カンナバ)と称する処に導き、山土を掘り崩したるを其水にて流し、之を砂溜(スナダメ)と称する池に導入し、・・・・・・。
・・・・・
鉄穴の数は不明なるも安永年間湛井堰組と争議協定の時の数左の如く見えたり。(注:安永年間 1772〜1781年)
   実村 成地分 花見村  十二ケ所
   井原村 釜村 千屋村  十二ケ所

更に、六十余年をへて弘化三年の頃は次の如く見えたり。(注:弘化三年 1846年)
   実村 成地分 花見村 大井野村 山奥村  三十一ケ所
   三坂 田口 千屋村 井原村          三十八ケ所
砂鉄の採収地として古来最も名あるは、花見山山麓の梅の木にして、・・・・
・・・・・

(二)、砂鉄精錬法
・・・・・
明治六年日本坑法の発布によりて、調査したる当時の鑪場(タタラバ)及び鍛冶所即大鍛冶屋と称せしものにして、本郡所在左表の如し。・・・・
   (1)鑪場及び鉄鍛冶所 (明治六年現在)
   開始年月      場所                  工場主
 文政四年三月    釜村久栄(クサカエ)山       石倉龍太郎 (注:文政四年 1821年)
 文政四年八月    実村鋳長(イオサ)山        太田八太郎
 文政七年       油野村三室山            木下三郎平
 嘉永三年一一月   井原村扇谷山            植田卯七
 嘉永三年       菅生村西谷山            西谷幾三郎
 嘉永六月四年    下熊谷村安明地(アンミョウチ)山 米沢陣造
 嘉永六年九月    油野村大成(オオナル)山      木下昌平
 安政元年三月    釜村竹谷山              伊田大三郎
 文久二年五月    大井野村大栄山           太田繁太郎
 元治元年       長屋村長平山            郷本民治郎
 元治元年四月    大井野村喜美(キミ)山       横木孫平 (注:元治元年 1864年)

  (2)旧鑪場及鍛冶所
 上刑部村  赤松 丸山(以上大井野) 古谷(山奥)
 千屋村   阿瑞(アズイ)谷(花見、休石) 梅ノ木(花見) 大滝(朝間) 樋谷(成地) 二ケ所(実谷)
 新郷村   大寛(オオヒロ)(高瀬) 三栄(三坂)
 菅生村   用郷 奥山 金倉(西谷) 嬉石(ウレイシ)(別所) 松ケ谷(千原)
 上市村   竪金(タテカネ)山(芋原)
 矢神村   三光山
 神代村   亀ケ原(油野) 金沢(下神代)

明治二十八年中の錬鉄製造高左の如し。
 村名       産額        価格
 上刑部村    五、三四六貫   一、二五〇円
 千屋村    一一、二〇〇貫   二、五七六円
 新郷村    一八、二四五貫   四、一九六円
 上市村      四、八〇〇貫   一、一〇四円
 神代村    一九、四四五貫   四、四七二円
・・・・・・・・・・・・・
 明治初年の交は砂鉄採取、銑鉄、錬鉄共に盛んにして、阿賀・哲多両郡の生産高を知るの資料の欠くも、明治七年哲多郡の生産高は、二十一ケ所の鍛鉄場即大鍛冶屋の年産十四万貫たり。之を二十年後の明治二十八年に於ける哲多郡三ケ村の生産高四万二千貫に比して考うるに、漸次斯業の衰頽を想像するに足るべし。大正の初年に於て新郷村高瀬及神代村油野の2ヶ所に鍛鉄場の稼業せるを見たり。然れども原料の銑鉄は備後、或は伯耆方面より供給を仰ぎ、之れが製品も地方の小鍛冶職に供給せしに過ぎず。之を明治の初年の頃の如く、京阪地方を販路として稼業したるの時に比すれば同日の談にあらざるなり。然れども何れも水車仕掛けによる煽風器、トロンプ仕掛を用いてなせるは一進歩にして、大なるフイゴを人力にて動かしたるに比しては一大改良と云うべきも、其後数年ならずして何れも廃業せり。

(以上 阿哲郡誌より抜粋 原文の旧字体は新字体に直している)
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1)天銀山の南西、上吉川から三坂への峠道の途中(池の西側)に金くそ散在地がある。土地の方の話では、たたら場か、それとも三坂鍛冶場の金くそ捨て場なのかわからないとのこと。資料で調べることにした。
(ここでの金くそは、土の焼けた部分がないので鍛冶作業から出たもののようである。)


金くそ (08,1,9 天銀山南西麓)
央のものは、金くそというより溶融鉄といったほうがいい。
左下のものは、スラグ状。焼けた土はついていない。

阿哲郡誌には、吉川でたたら操業がおこなわれたとの記述はない。明治に入る前には、芋原でたたらあるいは、鍛冶がおこなわれていたとの記述あり。あの場所は芋原なのか。
ここで、製鉄、精錬がおこなわれたかどうか不明のままである。

2)阿哲郡では、江戸期 砂鉄採集、製鉄、精錬が盛んにおこなわれたが、明治に入り衰退しはじめ、まず明治中頃カンナ流しがおこなわれなくなり、同時期に砂鉄を原料とする製鉄がおこなわれなくなった。原料を備後、伯耆に求め鍛冶場は其の後も残ったが大正期に入って阿哲郡での鍛冶場はすべてなくなった。以上が、阿哲郡でのたたらの概観である。

3)阿哲郡誌は、上の記述の後 安永、弘化年間での「濁流水に関する下流地域の抗議、評定」の話が続く。「鑪 鍛冶屋諸色規定書之事」(文政七年)には、抗議の取り決めのほか、「山内抱之者」の約束事が書いてある。ばくちをしてはいけない、山川で生き物を取ってはいけない、たたら場へ村の牛や馬が来たときは傷つけないように追い返すこと、などと書いてあるようだ。其の頃のたたら労働者の生活ぶりが窺われて面白い。

(08.1.11)




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