本能・欲求


2010年12月22日
新しい欲求の生産
マルクス、エンゲルスは著作「ドイツ・イデオロギー」で、実践を唯物論的にとらえる立場をとった。すなわち、「生きた人間的諸個人の存在」から出発し、「人間の現実的な生活過程」をとらえ、これを、1)衣食住に必要な生活手段の生産と物質的生活の生産、2)新しい欲求の生産、3)生殖による人間そのものの生産と家族、4)社会的諸関係、すなわち協業と人間相互のかかわり、という社会的活動の諸側面からとらえた。

私が考えてきた人の3つの本源的な欲求と照らし合わせてみると、1)は、個体保存の欲求、3)は、種の保存の欲求、4)は、協働の欲求に対応する。しかし、3)の新しい欲求の生産、に対応するものはない。私は、人間の欲求は無限大ではない、と自分に言い聞かせてきた。これは、今、私の住んでいる社会が、商業的に私自身の欲求を、際限なくかきたててくることに対する嫌悪感の裏返しである。上で言う、「新しい欲求の生産」という言葉に、欲求自身を新たに「連続的に拡大」生産していく、という内容があるとすればそれは間違いだ。人が人に成るにいたった本源的な欲求、すなわち、個体保存の欲求、種の保存の欲求、協働の欲求を十分に、ほどほどに、必要なだけ満たせば良い。

そして、この3つの本源的な欲求が社会の発展の原動力であったとしても、それを担うのは今の私ではない。私は、その役割を果たしてきた。自分の一生にキラキラと輝く未来を想像出来る若い人に社会の発展の原動力になってもらおう。

参考(「現代唯物論の探究 理論と実践の価値」 牧野広義著 文理閣 P82)
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posted by tamatama at 07:17| 本能/欲求 2010年10月02日
個体保存の本能は必要か
個体保存の本能は必要か、これはそもそも問題の立て方が間違っている。個体保存の本能が、今現在、人も含めて生物全般に備わっているのは結果であり原因ではない。いま私たち人がここにいるのは、生命誕生から私たちに至る35億年の歴史で営々と個体保存の本能を持ち、育んできた結果である。自己保存の本能を持ち続けたからこそ今の人が生まれたという意味では、必要であったといっていいだろうが、今現在必要かどうかという問いはナンセンスである。

種の保存の本能は必要か、協働の本能は必要かという問いも、今現在に限って言えば答えはない。この二つの本能が人に備わっているのも結果であり、その必要性を問うのはナンセンスである。

更には、私たちの存在そのものが結果であって、その存在の意味や、是非そのものを問うことはナンセンスである。これからも人が存在し続けるかどうかは判らない。私たちがこれからも存在し続けなければならないというのは、それぞれの人の世界観の問題である。

私が、ここに存在していることは遠い過去の祖先に感謝している。私に個体保存の本能が備わっていたことは、さらに遠い人以前の祖先に感謝している。私は、自分を守り、よりよい暮らしをするために努力し、そしてひとりの子供を作った。それが、私を祖先とするであろう遠い未来の人たちにどういった影響があるのかは知るよしもない。しかし、少なくとも個体保存の本能を普通レベルでは子供に伝えることが出来たと思っている。
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posted by tamatama at 11:32| 本能/欲求 2010年09月11日
協働の本能
「安心して生きる」(7月21日)からの引用・・・・

「人はなぜ、人になったのか。人の根源的な欲求は何なのか。
海の中で小さな細胞として生まれ、だんだん複雑な体を持ち陸に上がって哺乳類となり、そして人となった歩みの中で一貫して持ち続けた欲求は何なのか。それは、個体保存と種の保存の2つである。この2つの欲求は、生物すべてに共通しており、それは遺伝子に埋め込まれ本能となっている。私たち人は、この2つの本能を意識するとき欲求として区別したり、分類したりしている。」
・・・・・

個体保存の本能、種保存の本能のほかに、人には3番目の本能がある。他の人と一緒にいたい、話をしたい、協力して何か成し遂げたいという本能である。家族、学校、職場などがそれを実現している。人が社会を作っているのも、その本能を実現させるためである。歴史的には逆で、人が社会を作って環境変化に対応していくなかで、その本能を培ってきたのだろう。

この協働の本能こそが、人をここまで地球で栄えさせて来たものだと言える。個体保存、種保存の本能は他の哺乳類にも十分あるが、この協働の本能は人が格段に強い。また、人は協力するだけでなく、その優れたコミュニケーション能力を活かして計画的に物事を進めるようになった。(これも、計画的に進める必要からコミュニケーション能力を発達させてきたともいえる。)

私は妻を亡くし、病気になり、会社をリタイアした。種保存の欲求(性交渉の欲求)はほとんどなくなった。協働の欲求(仲間作りの欲求)も、ほとんどない。そして、病気になって、個体保存の欲求(食べたい、そして長生きしたいという欲求)も、消えかかっている。
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posted by tamatama at 22:22| 本能/欲求 2010年07月21日
安心して生きる
自分ががんになって残された時間が人よりも少ないだろうと覚悟した時、人はなぜ生きるのかについて考えた。自分がこの先、何を心のよりどころにして生きていけばいいのか、確かなものが欲しかった。これからの少ない時間を心穏やかに安心して生ていくために。

人はなぜ、人になったのか。人の根源的な欲求は何なのか。
海の中で小さな細胞として生まれ、だんだん複雑な体を持ち陸に上がって哺乳類となり、そして人となった歩みの中で一貫して持ち続けた欲求は何なのか。それは、個体保存と種の保存の2つである。この2つの欲求は、生物すべてに共通しており、それは遺伝子に埋め込まれ本能となっている。私たち人は、この2つの本能を意識するとき欲求として区別したり、分類したりしている。

この2つの本能が旺盛な種は栄えたであろうし、旺盛でない種は消えていったに違いない。地球環境の変化にも対応できるだけの旺盛さが必要というレベルの話でだ。私たち人は、この2つの本能が旺盛だ。長い時間をかけて幸運にもうまく進化した脳をフル活動させ生き残るために、即ち、種の保存のために試行錯誤を繰り返し悪戦苦闘している。

この悪戦苦闘の戦いの戦列からは私はもう離れた。離れていいだけのことはしてきたとの思いがある。長い歴史の中での私の役割はもう終わった。そして今は安心して残りの時間を過ごしている。
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posted by tamatama at 08:20| 本能/欲求 2010年07月17日
絵画と快感 その2
モンドリアンは、画面を線と平面で構成した画家である。彼の絵に、快感(心地よさ)を感じるのは 彼の絵がきっかけになって何かを連想させ、経験して脳に記憶された感情がよみがえるからではない。絵の形そのものが、快感を感じさせる。縦と横の線がどうして快感を生むのか。

私たちの脳は、ものを見たとき写真のようにあるがままの姿を取り入れたり、記憶したりするのではなく、形を特徴づけて取り入れたり、記憶するのだろう。モンドリアンの絵は私たちが意識することのない「立体(形状)把握感覚」を刺激して快感を生んでいる。

どうして、そうなったのか考えるのも面白い。脳のキャパシティに限界があるから写真のようには記憶できないのはなるほどそうだろうし、短時間に記憶するには特徴をつけて記憶するのがいいのかも知れない。大昔、人間の祖先が森やサバンナで必死に生き残ろうと戦っていた時、敵か味方か見分けるのにゆっくりしていては、やられてしまう!

脱線ついでに。
少し前に、フェルメールや、ハンマースホイの超写実的な絵のブームがあった。こういった絵は、古い脳を刺激することが少なくて、楽なのか。古い脳を呼び起こす絵は今の時代逆に疲れるのかな!
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posted by tamatama at 08:20| 本能/欲求 2010年07月17日
絵画と快感 その1
セザンヌは、ものを立方体や、直方体、球、三角錐などの立体として捉え、キャンバスの上に表現したと言われている。セザンヌの絵を見ると私たちの脳の奥にある古い脳の「立体把握感覚」が刺激され、快感を感じいい絵だなあと思うのだと考えている。

それを発展させたのが、キュビズム。ピカソの有名な「泣く女」は、泣く女に対する見る人のなにがしかの感情と、立体把握感覚の二つで古い脳を刺激して快感を呼び起こしている。

人は、なぜ快感を感じるのか、楽しいとか嬉しいとかいうことはどういうことなのか、そもそも人の感情を支配しているものは何なのか。ずっと考えてきた。一応私なりの結論が出たので、最近は考えていない。
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