対馬/舟志湾カヤックの旅(2011年8月31日〜9月2日) 対馬/歴史探訪の旅 (2011年9月3〜4日) 九州北部/歴史探訪の旅1(2011年9月27〜28日) 九州北部/歴史探訪の旅2(2011年9月27〜28日) |
2011年09月30日 九州北部/歴史探訪の旅2 2011年 9月27、28日 九州北部(福岡、佐賀)へ日本の古代、中世の歴史探訪の旅に出かけた。 27日 早朝自宅出発 「国立九州博物館」訪問、「契丹 美しき3人のプリンセス」展開催中 大野城跡訪問 宿泊 休暇村志賀島 28日 朝、金印発見場所「金印公園」と「蒙古塚」訪問 唐津へ移動、「佐賀県立名護屋城博物館」、名護屋城跡訪問 この後、福岡へ戻り、鴻臚館跡へ行こうとしたが駐車出来ずその足で帰宅した。 予想以上に小さかったものは「金印」、予想以上に大きかったものは「名護屋城」。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 2日目 28日 朝6時、朝食前に金印公園、蒙古塚訪問のため車で出発。 まず、蒙古塚。ここは、文永の役(1274)の際、逃げ帰る蒙古軍の船が座礁し兵120名が処刑されたところと云う。 蒙古塚(首切塚) 慰霊碑 海側の景色 次に、金印が発見されたという場所へ行った。今は「金印公園」として整備されている。しかし、本当の発見場所は、実はわかってないらしい。私も、訪ねてみて正直こんなところで発見されたのかなあと、思った。 金印公園 島内一周して休暇村へ帰った。 玄界灘 日出ずる国 昨日の海に沈む夕日と云い、今朝の海から出てくる太陽と云い、遣隋使に持たせた「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」が、ここでは実感できる。内陸の大和の地では、こんな感覚は生じないのではと思って、ひょっとして九州王朝説も本当かなと思ってしまった。 8時、唐津の「名護屋城跡」に向かって出発。途中、伊達政宗陣屋跡という交差点を通ったりして、9時半、名護屋城博物館に着いた。 佐賀県立名護屋城博物館 名護屋城跡から見る パンフレット 表紙は、「肥前名護屋城屏風(部分)」 「名護屋城博物館は、この広大な遺跡の保存整備事業の中核施設となるとともに、過去の史実に対する反省の上にたって、日本列島と朝鮮半島との交流の歴史を調査・研究・展示紹介し、今後の友好・交流の推進拠点となることを目指しています。」 (展示テーマ) 1.名護屋城以前(原始・古代の交流)(中世日本の対外交流)、 2.歴史の中の名護屋城(肥前名護屋城)(文禄・慶長の役/壬辰・丁酉倭乱)(名護屋城に見る桃山文化)(文化の移入)、3.名護屋城以降(江戸時代の交流)(近・現代の日本列島と朝鮮半島)、4.特別史跡 名護屋城跡並びに陣跡 入館時、私一人であったが、すぐに30名ばかりの団体が入ってきた。案内ガイドさんが付いており、20分ほど一緒に聞いた。屏風の中に秀吉と思われる人物が2か所に書かれているとのこと、ガイドさんならではの興味を引く話題提供!団体さんが30分でいなくなった後は、個人のお客が数名。静かになった。 名護屋城復元模型 手前 日本水軍の安宅船(全長38m。鉄砲の狭間と、切り込み用の外に開く扉がある。) 奥 朝鮮水軍の亀甲船(全長36m。側面に、大砲の穴が並んでいる。) 12時、博物館退出。外のベンチで、パンで昼食。すぐに、名護屋城跡へ向かった。 名護屋城跡は、予想より数倍大きく、石垣も予想以上にしっかりと残っていた。 大手口 東出丸 入口 本丸南西隅櫓から天守台跡方面 本丸敷地は、ほぼ120m四方 天守台跡 天守台規模は、22m×18m 遠くに玄界灘を望む 天守台跡から見た玄界灘方面 正面の島2つの間に、今日は見えないが、壱岐が見えるそうだ。対馬は、年に20日くらい見えるらしい。ここに立つと、朝鮮半島がすぐ近くに感じる。秀吉と同じ景色を見ていると思うと、感慨深い。ここで、博物館の学芸員らしい方とお会いした。5分ほど、ここから見える大名陣屋跡や当時の軍勢の様子などの話を聞くことが出来た。話の途中で、携帯電話がなって、呼び戻された。電話がなければもっといろいろ話が聞けたのに、残念だった。石垣の修理の監督をしているみたいだった。 崩れた石垣 城の人為的な破却の跡とも。これは、本丸北東隅櫓の下部 本丸南側石垣 下は馬場 ここから見える石垣は、築城当時のものではなく本丸が拡張された時のもの。名護屋城をずっと使うつもりで拡張したのだろうが、敗戦で城は使われなくなり無駄になった。 2時間あまり、城跡を見て回ったあと、博物館で関連書籍を購入して、ここを後にした。 左から、「佐賀県立名護屋城博物館 総合案内」、「2007年特別企画展 秀吉と文禄・慶長の役」、「2005年特別企画展 秀吉と城」 このほか、「平成22年度博物館テーマ展 『肥前名護屋城図屏風』の世界」も購入。写真では良く見えない部分を拡大して印刷してあり、見ていて楽しい。人の動きや、表情もわかる。お勧め。 4時に、福岡市内の「鴻臚館跡」のある運動公園に着いたが、とにかく車が多い、駐車場を探しても見つからない、ということでその足で、家に帰ることにした。9時に、帰宅。 今回の旅行では、名護屋城跡を実際に見たことが大きな収穫であった。 1)秀吉は、日本国という意識がなかった。 ・初めて領地とした長浜、そして五畿内、四国・中国、そして九州と勢力範囲を拡げて行ったが、すべて彼にとっては一連の「領土としての日本国」でしかなかった。 2)秀吉は、フロンティア感覚(領土の境を明確に意識しない拡張感覚)しか持っていなかった。 3)秀吉は、平時体制感覚、意識が全くなかった。 4)秀吉は、日本の民の安寧を守っていくのだといった意識は全くなかった。 5)秀吉は、信長配下時代の軍事体制の感覚、行動様式から抜け出ることが出来なかった。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− (参考)レガシィ アウトバック 3.6R ハイオク 1060km 燃費 14.1km/L 高速90% 普通道 10% 高速巡航速度80〜100kmの時 高速燃費15km/L以上(Sモードほぼアイサイト) to top 遺跡巡り/歴史探訪 2011年09月29日 九州北部/歴史探訪の旅1 2011年 9月27、28日 九州北部(福岡、佐賀)へ日本の古代、中世の歴史探訪の旅に出かけた。 27日 早朝自宅出発 「国立九州博物館」訪問、「契丹 美しき3人のプリンセス」展開催中 大野城跡訪問 宿泊 休暇村志賀島 28日 朝、金印発見場所「金印公園」と「蒙古塚」訪問 唐津へ移動、「佐賀県立名護屋城博物館」、名護屋城跡訪問 この後、福岡へ戻り、鴻臚館跡へ行こうとしたが駐車出来ずその足で帰宅した。 予想以上に小さかったものは「金印」、予想以上に大きかったものは「名護屋城」。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 1日目 27日 早朝、自宅出発 10時、「九州国立博物館」到着。 (訪問の詳細は、ここを参照) 次は大野城跡。どんなところなのか、様子がわからなかったが、ナビで大野城跡を指定して行った。 それらしい看板を発見。 案内、説明表示板 大野城石垣 道路から見ることのできる百間石垣 少し上部の石垣 石垣は、修復が行われている。写真奥が修復した石垣で、手前が築城当時のもの(だと思う。) 石垣の感じは、対馬の金田城とよく似ている。城の一番高いところから、まわりがどんな様子なのか見たかったが、足が疲れているうえに、どこが一番高い場所なのかわからないので、早々に引き揚げた。 今日の宿泊場所、休暇村志賀島へ向かった。5時に到着。食事をしてすぐに寝た。 玄界灘に沈む夕日 (2日目、28日に続く) to top 遺跡巡り/歴史探訪 2011年09月09日 対馬/歴史探訪の旅 2011年 9月3〜4日 予定では、この日、対馬の北部、上対馬町の宿を出て対馬西岸を下り、観光をしながら対馬最南端の集落「豆酘(つつ)」まで行って、厳原に戻り午後のフェリーで博多へ行き、博多で一泊、翌日、4日に「九州国立博物館」訪問してその日のうちに帰宅というものであった。 しかし、台風の影響でフェリーが欠航となりもう1日の対馬滞在を余儀なくされ、対馬観光がゆっくりできた分、博多での時間がなくなり「九州国立博物館」訪問は次回ということになった。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 9月3日 曇り時々晴れ 風強い 9時、比田勝の宿を出発。対馬最北端を目指す。「豊砲台跡」訪問。昭和4年から5年の歳月をかけて対馬海峡、日本海の制海権確保のために40.6センチカノン砲2門が設置された。朝鮮半島まで50km 実効射程距離 30km。 豊砲台入り口 コンクリート厚さ2m 砲台基部跡 試験発射はされたが、実戦には使われなかった。 次に、鰐浦の「韓国展望台」訪問。曇り空で視界不良。目を凝らして見ると、遠くに山影があるようなないような。 朝鮮半島を望む 朝鮮半島まで50km 朝鮮国訳官使殉難之碑(ちょうせんこくやっかんしじゅんなんのひ) 1703(元禄16)年対馬へ渡る朝鮮国訳官使の船が、鰐浦の沖合いで遭難。 訳官使の一行108名と案内の対馬藩士4名の計112名が全員溺死した。 11時、国道382号線を大浦、佐須奈、仁田と南下し峰町に着いた。 「峰町歴史民俗資料館」訪問。このあたりに、縄文、弥生、古墳時代の遺跡が多いことを知った。対馬には、古くから多くの人が住みつき朝鮮半島、九州との交流の中継地点としての役割を持ちながら文化的には先進的であったことがうかがわれる。 ここで、突然フェリー欠航の連絡が入った。厳原のホテルを急遽予約して、対馬南部の豆酘(つつ)訪問は明日にまわすことにし、ゆっくり対馬中部を回ることにした。ここで、パンで昼食。 さらに、南下して浅茅湾(あそうわん)が一望できる「烏帽子岳展望台」へ。 浅茅湾 リアス式海岸だが、ここまで入り組んだ入り江と点在する島は見たことがない。かって、倭寇の根拠地になったのも分かる気がした。地図を見るとほとんどの湾や鼻(岬)、島に名前がついている。 厳原まで戻ってきた。時間に余裕ができたので、小茂田(こもだ)の「元寇古戦場」へ行くことにした。県道44号線で対馬を東から西へ山越えをした。道は細く曲がりくねっている。昔の人は、大変だったろうと思う。 元寇古戦場 この海の向こうから元・高麗連合軍が来襲した。しかし、かっての海岸線はこの海岸よりさらに500m山側とのこと。実際の戦いの場はここではない。 帰りは、山越えの道を通る気になれず、2車線で整備された24号線で厳原へ戻った。厳原市内のビジネスホテルに宿泊。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 9月4日 曇り 風弱くなった 今日は、対馬最南端の集落「豆酘(つつ)」を訪問して、15:25発のフェリーで博多へ行き、そのまま帰宅の予定。 9時、出発。まず、対馬藩の”造船所”跡の「お船江跡(おふなえあと)」を訪問。 お船江跡 潮の干満を利用した船の修理用ドックが大小5つある。対馬藩が海洋交易に力を注いでいた証。 24号線から、豆酘瀬への山越えの道に入った。道は広いが曲がりくねっている。途中「鮎もどし自然公園」に立ち寄る。ちょっとした渓谷。 豆酘瀬の谷あいの田 対馬では、広々とした田は見当たらない 豆酘の集落に入った。 豆酘 豆酘漁港 豆酘(つつ)「ふるさとの文化遺産 郷土資料事典 42 長崎県 (人文社)」P153 「厳原港から車で45分 対馬の南西の端に位置し、豆酘湾に面するところ、豆酘浦の周辺にささやかな漁業集落がある。この集落は、純然たる外来漁民の集落で、言語・風俗とも、対馬のそれとは全く異なった異質の文化を形成している。ここの娘たちは、昔から唐人風の着物をまとい、言葉づかいもていねいで、対馬では俗に”豆酘美人”といわれている。また、集落には、今でも屋根に石をのせた家が見られる」 「美女塚」へ立ち寄った。 美女塚 「昔、豆酘に鶴王という美しい娘が住んでいた。賢く親孝行な彼女はあるとき采女として都へ召喚されることになった。年老いた母を残していく悲しみに耐えられず、都へ上る日、この場所で自らの命を絶った。『美しく生まれたために、二人は哀しみにあうのなら、これからは、この里に美女が生まれませんように・・・』このような言葉を残して世を去った美しい娘の伝説がある。采女というのは、古代天皇の宮廷に、地方豪族の娘が出仕したものである。」 豆酘美人 美女塚茶屋ロビーの写真を撮らせてもらった。主人に少し話を聞いた。豆酘の娘さんはきれいだと。ここで「今里こんたん(上田孝志著)対馬新聞社」購入した。明治維新直後に起きた士族の若者と農民の娘の身分を越えらぬ悲恋を島の自然と習俗を背景に美しく描いている。 多久頭魂(たくすだま)神社 神功皇后が三韓征伐の時、ここに天照大神などの神を祀ったのに始まりと伝えられている。ここには、宗氏が実権を握る以前、阿比留氏が治めていたことを示す梵鐘(和鐘)と金鼓(高麗時代のもの)がある。 梵鐘 赤米神田 「豆酘(つつ)の赤米は縄文晩期以後(弥生時代)の種類でジャポニカといわれています。弥生時代に渡来した可能性が高いそうです。稲の原生種と言われるこの赤米が、どうして現在も豆酘(つつ)に残っているかといえば、それはこの赤米の「穀霊(こくれい)」を神として祀っていたからなのです。」(「知っとたぁ?こんな対馬の歴史(はなし)!」武末聖子著・発行 P89から引用) 地元の方にお話を伺った。 1)豆酘では、かって他から嫁をもらうことも、他集落に嫁ぐこともなかった。他集落との婚姻が進んだのは戦後もしばらくたってからのことである。今、70代、80代になるおばあさんたちがかって、豆酘美人といわれた世代である。 2)豆酘では、古くからのお祭りが残っている。「十五夜」、「カンカン祭り」など。「いのこ」も行われている。 3)集落には、「曹洞宗」のお寺と「金剛院(真言宗)」のお寺がある。どちらも古い。豆酘八十八ヶ所霊場巡りがある。 このあと、豆酘の海岸へ出て、陶磁器片拾いをした。波にもまれ、角は取れているが青磁の色合いを残すものも拾うことができた。 豆酘の海岸 午後2時近くになったので、厳原に戻ることにした。対馬観光の定番、「万松院」、「金石城跡」は行くことができなかった。「対馬歴史民俗資料館」に立ち寄り「厳原町誌」、「対馬国志」(永留久恵著)購入。地元ならではの情報と、視点に期待。 厳原港 フェリーちくし フェリーから見る対馬 フェリーは、揺れた。20時、博多港到着。すぐに、高速に乗って帰途に就いた。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− (参考 今回の九州坊津、対馬旅行 レガシィアウトバック3.6R 燃費 ハイオク 1960km 11.4km/L) to top 遺跡巡り/歴史探訪 2011年09月08日 対馬/舟志湾カヤックの旅 2011年 8月31〜9月2日 長崎県対馬市 坊津を出発して、フェリー船中泊で9月1日、対馬に到着。その日に、古代山城「金田城」に登った。翌日、9月2日、舟志湾でシーカヤック。風が強く、湾から出られず残念であった。しかし、地元の人といろいろ話ができて楽しかった。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−ーーーーーーー 8月31日 晴れ 鹿児島県坊津を出発して、秋目湾、「鑑真記念館」に寄って、指宿スカイライン谷山ICより九州道に入った。博多には、11時頃に到着。0時10分発の「フェリーちくし」に乗船。出航少し遅れ、5時30分に対馬厳原(いずはら)港に着いた。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 9月1日 晴れ 予定通り、金田城(かねだじょう、かなたのき)に向かう。24号線分岐から、登山口までの道がすれ違いのできない細い道。7時に登山口に到着。 金田城登山口 二ノ城戸(にのきど) 7世紀、667年に作られたとは思えない立派な石積みの門 一ノ城戸(いちのきど) 金田城から浅茅湾(あそうわん)を臨む この後、日露戦争当時に作られたという日本軍砲台跡を経て、登山口に戻った。アップダウンがあり、ゆっくり見て回ったため6時間もかかった。 1時過ぎに出発。厳原に戻り、「長崎県立対馬歴史民俗資料館」訪問。約1時間半見学の後、今日の宿泊地上対馬町の「花海荘」に向かった。 明日のカヤック予定地、舟志湾(しゅうしわん)の下見のため、浜久須(はまくす)の集落に立ち寄る。集落の方に、潮、風、波のことを聞き、明日ここから出艇させてもらうことを伝える。湾内で、波が立つことはほとんどないとのこと。親切にいろいろ教えていただいた。 6時宿に入り、食事をしてすぐに寝た。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 9月2日 曇り 風やや強い 9時、出艇場所に着いた。昨日の集落の方と話をしたり、忘れ物を宿にとりに帰ったりで、結局出艇が11時半になってしまった。 出艇 波静か、しかし追い風・・・ くねくねした湾を順調に外海に向かって漕ぎ出した。波はないが、追い風が強い。 萩ノ島の内側を通り、唐舟志(とうじゅうし)の南側の湾内に入った。ここから見る外海は白波が立っており、この湾内で休憩し引き返すことにした。ここまで、1時間。 漂流物の多い石ころの小さい浜 湾内から見た、来た道方面 湾内から見た、波が静かだったら行こうと思っていた方面 漂流物 右3個は韓国から、一番左のものは中国から 潮と風で流れてくるくらいだから、かって丸木舟のようなものでも行き来できたであろう 陶器片 パン2個で昼食、休憩ふくめ1時間。少し晴れ間もあったが、どんよりとした天気。 帰りは、向かい風で気合を入れて出発。 湾内に入って、まともに北風を受け体を低くしてもパドルを休めると押し戻される。必死で漕いで。写真を撮る余裕なし。腕が引きつりそうだった。対馬で漕いでいることだけに意味があるのだと思い直して、頑張った! 湾深く入って、風も弱くなった。 お社に、無事戻れたことのお礼をした。行きは1時間、帰りは1時間半、3時に到着。 後片付け 集落の方が、「水洗いにつかったらええ。遠慮せんでもええ」と、井戸水をホースで引っ張ってきてくれた。水洗いが、あっという間に済んだ。 後片付け終わり 集落の方にお礼を言って、5時前に宿に向かった。 部屋は3階の角。風がビュービュー、怖いくらいの唸りをあげている。部屋を変えてもらったが、それでも時折、風の唸りが聞こえた。食事をして、早々に床についた。 明日は、フェリーで博多に渡り、ビジネスホテルに一泊。翌日、「九州国立博物館」に寄って、その日のうちに帰る予定。・・・・しかし、台風の影響で予定が大幅に狂うことになった。 to top |