日本/歴史・・概観/通史



2011年11月20日
日本の長期人口推移と気温
「日本の長期人口推移と文明システム」で、縄文時代から現代までの日本の人口の推移の図を示した。これに、日本の気温の推移を重ね合わせた。(「人口から読む日本の歴史」鬼頭宏著 にも、気候と植生、人口の関係の話が出てくる。)


人口推移と気温
気温の推移グラフは、「岡山大学埋蔵文化財調査センター報 No.35 2006 Spring」に掲載のもの。図の出典を「参考文献:小泉格1995「地球文明の周期性」『講座文明と環境 第1巻地球と文明の周期』朝倉書店」としている。

(図からわかること)
1)紀元前4000〜3000年の縄文中期の人口減少は、この時期の気温の低下(縄文中期寒冷期)と関係がありそうなこと。そして、その後の温暖化で、再び人口増を果たしたこと。
2)紀元前1500〜500年の気温低下(縄文晩期寒冷期)を経て、稲作(水稲)が始まり、普及したこと。
3)0〜2000年の間に、2回気温が低くなる時期がある。気温が低下していく時期には人口が、微増あるいは増加し、続いて気温が上昇する期間は人口がほぼ横ばいになる。平安時代と、江戸時代である。

(これをみて少し考えたこと)
1)気温の変化と、人口の増減は関係があるようだ。
2)気温が下降していくときに、社会に大きな変化が現れるようだ。
(1)稲作の伝来と普及、
(2)倭国大乱から律令制度確立に至る国家体制の整備、
(3)応仁の乱から戦国時代を経ての封建的幕藩体制整備、
(4)幕末動乱から明治維新、天皇制立憲国家体制を経て戦後民主的議会政治体制に至る変化。(少し異なる)
3)現在は、かっての平安時代、江戸時代に対応する人口横ばいの期間にあるように見える。

(もう少し考えてみたこと)
1)明治維新、15年戦争(アジア・太平洋戦争)の敗戦を別々のこととして考えていたが、社会の変革という意味合いでは、始まりが幕末動乱、明治維新で終わりが敗戦という約100年間をひとくくりにして考えなくてはならないのではないかと思った。敗戦から66年経った今は、江戸時代で言えば元禄時代のような時代に、いるのかも知れない。
2)平成の今は、新たな時代のスタートにいる。これから続く数百年あるいは数十年かも知れないが、その間が次の時代の準備の期間のように思えてきた。

3)これまでは、気候変動に従属する形で社会の変化が起こったが、この後はそれを乗り越える、克服する形で変化をなし遂げなければならない。
4)いつの時代の人も3)のように考えていたのかもしれない。今を生きている人間は、自分のいる時代がどんな時代なのかわからないし、今自分が考えていること、人々が決定しようとしていることが長い歴史の中でどういった位置づけにあるのかも正確にはわからない。その時々で、最善の方法を考え、決定して「前に」進んでいくしかない。
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posted by tamatama at 18:57|   概観/通史 2011年11月15日
日本の長期人口推移と文明システム
日本列島での稲作の開始は、縄文の人々が自然の恵みの中で暮らしてきたのとは違って、自然に働きかけて食料を得ることによって、これまで以上の人々を養うことを可能にした。稲作による食糧増産は、人口の急増をもたらした。彼らは、新たな労働力となって、新田開発に力を注いだため、さらに食料増産となり人口増となった。人口増と、食糧増産は車の両輪のごとく、お互い連関しながら拡大、大きくなっていった。

日本の人口増と、食糧増産の仕組みを長期スパンで考えてみた。

1)稲作の開始は、日本の歴史にとって革命的な出来事であった。とはいっても、日本の国土の供給力を大きく増やすということをしただけで、外国から食料を得ていたわけではなかった。
2)明治維新後、人口は爆発的に増えた。食料の増産には限度があって、次第に食料自給率が落ちていった。今や、食料自給率は40%である。

3)日本のエネルギー収支を考えると、明治維新の前後までは太陽の恵みの中で人々は暮らしており、外国からエネルギーを輸入することはなかった。
4)明治維新後、工業化が進んで生産力は伸びたが、エネルギーの自給率は下がり続け、いまや原子力を除けば4%にまで落ち込んでいる。

5)日本の歴史は、100万年の道具の乏しい狩猟採取の旧石器時代、1万年の狩猟漁労採取の縄文時代、弥生時代に始まる2000年の稲作基本の時代、明治維新後の100年たらずの工業化時代に分けられる。もっとまとめると、狩猟漁労採取時代、稲作時代、工業化時代の3つ。
6)歴史は後戻りできない。食料自給率40%、エネルギー自給率4%の現在、日本はどうすればいいのだろうか。・・・・

といろいろ、考えながらヒントを求めて、今日、改めて「人口から読む日本の歴史」鬼頭宏著 講談社学術文庫 を読んだ。上で、私が考えようとしたことは、すでに本書に述べられていた。

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日本列島の人口推移(縄文早期〜2100年)
データは、「人口から読む日本の歴史」P16、17、本書P52参考にして250年に220万人のデータ追加。本図は私が作成したもの。

「過去1万年に4つの波があったことが認められる。第1に縄文時代の人口循環、第2に弥生時代に始まる波、第3は14・15世紀に始まる波、そして最後は19世紀に始まり現代まで続く循環である。

そのうち、弥生時代から10世紀以降にかけて見られる波が、稲作農耕とその普及による人口増加であり、19世紀に始まるもう一つの高まりが、工業化に支えられた人口成長である。」

「農業社会そして産業社会を分けるこの二つの革命のほかに、日本人口の歴史にはあと二つの変化が認められる。それは、4千〜5千年前の縄文中期にかけての高まりと、16・17世紀の急速な人口増加である。前者は狩猟・採集・漁労に依存する原始社会の中での人口変化であるが、旧石器文化に代わる縄文文化の発展と気候変化が結びついて引き起こしたものであった。後者は農業社会の中で生じた経済システムの変化−市場経済化に伴う変化である。」(「人口から読む日本の歴史」P18、19)


文明システムの比較 
同書P254 転載

「人口は自然環境の変動によって影響を受けるとともに、文明システムの転換や国際関係の変化とも密接に関連していた。新しい文明システムの展開は、食糧生産力の向上と居住空間の拡大を通じて、社会の人口支持力を増大させる。人口が増加を続けて、環境と文明システムによって決められている人口支持力の上限に近づくと、何らかの要因が働いて人口成長はブレーキがかけられ、やがて停滞せざるをえない。人口が長期にわたり持続的に成長する局面は、文明システムの転換が生じた時代であった。反面、技術発展にとって人口圧力の高まりが不可欠である。人口支持力上限まで人口が近づくと資源・エネルギーと人口とのあいだに緊張が高まり、生存をめぐってさまざまな問題が発生するであろう。このように人口圧力が大きくなったとき、社会内部における技術開発や外部文明からの技術移転が強く促され、その結果として文明システムの転換が起きると考えられるのである」(同書 終章 日本人口の二十一世紀 、P253)

「生物資源は太陽のエネルギーによって毎年、一定量生産するので、・・・その範囲内で使うならばいつまでも利用することが可能な再生可能なエネルギーなのである。これと違って石炭や石油は地球の歴史的な産物である。数億年から数千万年前の生物遺骸に由来するこのエネルギー資源は、代々、親から子へ伝えられた先祖ゆかりの遺産のようなものである。どら息子がいっぺんに使ってしまえば、いっときは豪勢な生活はできるが、あとは野垂れ死にするほかない。」(同書 P265、266)

「少子化の比較文明学的検討から導きだせる日本の課題とは、次のようなものであろう。
第一は「簡素な豊かさ」の実現である。(略)
第二は少子化の受け入れと静止人口の実現である。(略)
第三に公私、または官民の役割を、明確にすることが必要である。過去の文明史に照らせば、二十一世紀前半は新しい時代に適合的なシステムを模索する時期になるであろう。(民間組織や個人を中心にして)あらゆる可能性が試されなければならない。失敗もあるだろう。そのような場合に備えて、(公は)救済措置を準備する必要がある。(略)」(同書 P272〜275)
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posted by tamatama at 19:19|   概観/通史 2011年09月21日
内向き外向きを繰返す日本
(まえがき)
古代・中世の対外関係の年表を作成し、中国、朝鮮半島諸国との関係の歴史をみた。

これまで、華夷思想が生まれた要因について考えてきた。中華思想を統治制度の基本とする律令制度の日本への導入が、華夷思想の日本の支配層への移転となった。そして、他国との競合、摩擦を繰り返す過程で、民族自立意識が神国思想と結びついて日本中華意識を生んだ。その傾向は、日本が対外進出を阻まれ内向きになった時代に強化された。

しかし、ここで立ち止まって考えてみると、以上のようなことは、どこの国でもありそうなことで日本だけが特別ではないように思える。民族意識、ナショナリズムがキーワードかなと考え始めた時、これは手に負えないなあと思った。で、いったんここで、華夷思想から離れることにした。

2011.9.16記事「辺境の島国日本の繁栄と限界」のところで述べた「日本が内向きになったり外向きになったりする」ことのほうに興味が移った。本当に、そうなのか、なぜそうなるのか、秀吉の朝鮮侵略などの個別の事象とどういった関係があるのか、他の国ではどうなのか。
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(古代・中世対外関係の年表作成)

年表は、「古代・中世対外関係年表」に示す。内容は、講談社 日本全史から抜き出した。

(歴史を期間で分けた)
全体を、7つの期間に分けた。
次に、それぞれの期間の間の出来事から、対外関係に関係あるものを選び出し、その関係が友好的関係のものは青色で、緊張関係であるものは紫色に、交戦状態であるものは赤色で示した。各期間ごとの出来事について(青色+紫色+赤色)の数に対する(紫色+赤色)の数の割合を算出した。これは、その期間の対外関係がどれくらい、緊張状態にあったかを示す。おおざっぱな集計であるが、傾向が出るものとしてやってみた。それが、右に書いてあるカッコ内の数字である。単位%

T:    〜562  加羅滅亡          (83)■■■■■■■■ 
U:    〜663  白村江敗北        (75)■■■■■■■■
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V:    〜842  新羅人入国禁止     (50)■■■■■
W:    〜1281 元、襲来          (50)■■■■■
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X:    〜1401 義満、明へ使者派遣  (63)■■■■■■
Y:    〜1550 最後の遣明船派遣   (22)■■
Z:    〜1598 秀吉、第2次朝鮮出兵  (90)■■■■■■■■■

全体を、T+U=A、V+W=B、X+Y+Z=Cと3つの期間にまとめた。

(内向きと外向きを繰り返す日本)
Aは、古代、倭国が対外的に朝鮮半島諸国と同盟、競合し緊張関係にあった期間である。
Bは、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、班田を基礎とした律令制度確立を目指し内政を重視した時代である。荘園制度の発達とともに次第に律令制度が弱まり、武家政治になっても内向き政治は変わらなかった。元の膨張にも危機感が薄かった。
Cは、明の弱体化に伴って東アジア諸国が激動した時代である。国内的には、変化した土地制度の帰結として権力構造が中央集権から地方分散へと変わっていった。対外的には、東アジア一帯で平和的な交易と同時に倭寇や暴力的な海商が「活躍」した時代である。それは、最終的に秀吉の朝鮮侵略で終末を迎えた。

(何が、内向き・外向きを繰り返す要因か)
これまで、秀吉の朝鮮侵略に影響を与えたと思われる「日本の華夷思想」がどのように、形作られてきたのかを知ろうとして歴史をさかのぼって調べてきた。調べているうちに、違うことに興味がわいてきた。「日本は、歴史をみると内向きになったり、外向きになったりを繰り返している」ということである。

何が、要因なのだろうか。大体のところは、わかっている。日本国内の生産力の成長と、それを統御する生産様式の矛盾が、「暴力的な外向き発散」をさせるのだ。秀吉の朝鮮侵略も、そうした大きな流れの中でとらえたほうがいいように思う。日本の華夷思想を考えるより、こちらのほうがより根源的に思えて興味深いし、これまで考えてきた人の「個体保存の欲求」、「種保存の欲求」、「協働の欲求」との結びつきが出来そうで力が入る。

(これからの日本を考えるきっかけに)
縄文時代、弥生時代は生産力を増大させる時代で、古墳時代に矛盾を解消させた。飛鳥、奈良、平安時代そして鎌倉、室町時代が生産力を増大させる時代で戦国、織豊時代で矛盾を解消した。江戸時代は生産力を増大させる時代であって、明治維新後で半ば暴力的に、半ば平和的に矛盾を解消した。そして、その後の国家資本主義は急激に生産力を増大させ、そして中国、朝鮮侵略という暴力的、破滅的な方法でそのいびつさを「いったん」解消させた。そして、いま、また生産力を増大させる時代にある。経済戦争と言われる世の中になっているが、どうなるのだろうか。
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posted by tamatama at 16:37|   概観/通史 2011年09月16日
辺境の島国日本の繁栄と限界
古代から、現代まで日本の対外関係の歴史をまとめてみると下のようになる。

世紀 関係・接触の強さ(イメージ)
1■■■■    57 後漢光武帝、倭の国王に印綬贈る
2■■■■
3■■■■■   239 卑弥呼、魏の明帝より金印を授く
4■■■■■■■  391 半島出兵(好太王碑文)
5■■■■■■    倭の五王、宋に使者を送る
6■■■■■■   562 加羅滅亡593聖徳太子摂政、仏教伝来
7■■■■■■■  663 白村江の戦い、大敗 710平城京遷都
8■■■     794 平安京遷都、遣唐使
9■■      842 新羅人、入国禁止
10■■      894 遣唐使廃止、藤原道真建議
11■■      1019 刀伊の入寇
12■■      1192 源頼朝征夷大将軍
13■■      1274、1281 元、来襲
14■■■■■   1341 天竜寺船、元に派遣 第一次倭寇
15■■■■■■  1401 義満、明へ使節派遣、朝貢貿易
16■■■■■■■ 1550 最後の遣明船帰国、1592 秀吉朝鮮侵略
17■■■     1603 家康、征夷大将軍
18■■
19■■■     1853 ペリー来航 1867王政復古の大号令
20■■■■■■■ 1931 満州事変 1937 日中戦争 1941 太平洋戦争
21■■■

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(大陸への進出と撤退)
日本は、3度大陸・朝鮮半島へ直接兵を送った。
1)古代3〜5世紀には、朝鮮半島諸国と競合・同盟を繰り返す中で、頻繁に兵を送っていたと思われる。562年、加羅の滅亡で半島への足がかりを失ったが、その後も百済と深い関係を持ち出兵していた。663年、白村江の戦いで大敗を喫してから、大規模な出兵はなくなった。

2)中世14〜16世紀には、日宋貿易、日明貿易が盛んで、幕府に加え民間の交易も盛んになった。倭寇が朝鮮、中国の東シナ海沿岸を襲った。秀吉は日本国内統一の後、朝鮮、明を征服しようとして兵を送ったが、目的を達することが出来なかった。
3)明治維新以降、国家資本主義を発達させながら、日清・日露戦争、第一次世界大戦で大陸への領土拡張を目指した。昭和恐慌の後、軍閥政治が伸張し、ファシズムへと走り朝鮮・中国を侵略したが、対ファシズム連合国に敗れた。

(大陸進出後の日本)
古代、中世の2回の大陸進出が失敗に終わった後、日本は内向き政策をとり対外関係を委縮させた。663年の白村江の戦いの後、律令体制の整備に力を注いだ。842年の新羅人の入国禁止、894年の遣唐使廃止以降は、交易、情報の少ない鎖国状態となった。長い自己満足、内部紛争の時代が続いた。

幕府、諸国大名、民間の交易が盛んとなった中世、戦国の世を生き残り国内統一を成し遂げた秀吉の朝鮮侵略は失敗した。秀吉の後を継いだ、徳川幕府はヨーロッパ諸国が、海外交流を盛んにしている情勢にもかかわらず、内政重視の姿勢を取り「海禁政策」を取った。国内は平和な時代が続いたが、交易、情報(国際情勢、技術情報)は貧弱であった。

太平洋戦争の敗北のあと、日本は対共産圏諸国の「防波堤」として、アメリカの対外政策の中に組み込まれた。アメリカは、日本の経済復興を重視し、民間資本の育成を進めた。沖縄を恒常的に、軍事基地化するとともに、自衛隊の強化・育成も容認した。日本は、戦後の高度成長を成し遂げ世界第2位の経済大国となった。

(日本の繁栄)
日本は、古代、大陸から文化を吸収し、政治制度の移入を図り、経済的な利益をえながら国を整え、国力を大きくしていった。大陸進出が白村江の戦いののち、とだえると内政を重視して国としての体制を充実させた。日本から大陸諸国へ交流を求めることが少なくなった。大陸から日本に交流を求める国はあったが、日本がそれを断った。そうすることが出来たのは、日本が大陸の辺境の島国であったからである。日本が、国力を増し、軍事力を増しても、日本が大陸への関心を示さなければ、大陸諸国は日本を放任した。

秀吉の朝鮮侵略の後、徳川幕府が「海禁政策」を取った時、大陸の中国、朝鮮は日本の再侵略を恐れ、警戒はしたが、日本に軍事的に攻め入る国力を持たなかった。ヨーロッパ諸国は、日本を軍事的に占領する意図はなかったと思われる。戦国時代を通じて軍事力を高め、統治能力をそれなりに高めた日本を政治的にも占領することはできないと考えていた。辺境の島国日本は、またもや大陸諸国から「あたらずさわらずの国」として放置されたのである。明治維新を迎えるまでの間、日本は平和の内に国力を大きくし維持することが出来た。しかし、この間の海外西欧諸国の発展は著しく、またその差を長く知ることはなかった。

太平洋戦争敗北のあとの日本は、これまでとは様子が違った。「あたらずさわらずの国」ではなく、自由主義陣営の国として、はじめから大きな役割があった。アメリカは、日本の戦後復興を支援し経済的に自立した国にするべく資本投下、技術援助をした。強固な安全保障条約を締結し、沖縄基地の維持に努めた。日本は、極東の辺境の島国であったが、アメリカから見れば、辺境の島国ではなく最前線の「防波堤」であった。

(辺境の島国でよかったこと)
日本は、歴史を通じて経済的、文化的に中心にいたことはなかった。古代、中世は四大文明の一つ黄河文明を引き継ぐ、中国大陸中原の諸国が経済的、文化的中心であった。近世江戸時代は、エジプト、メソポタミア文明を引き継ぐ、西ヨーロッパ諸国が、経済的、文化的中心であった。そして、近代、現代は、その西ヨーロッパ諸国から、彼らの経済力、技術力、そして活力を引き継ぐアメリカが、経済的中心にいる。

日本が辺境の島国で、よかった点を先にあげると、古代、中世には日本は先行する中国の経済力、文化の恩恵を受け取った。極東の一番奥にある国なので、次に渡す国はなく、それらは貯まっていく一方であった。近世江戸時代は、日本が勝手に「海禁政策」を取っても、西ヨーロッパからはあまりに遠く、インドや、インドシナ諸国で十分利益をあげていたため、関心はあったとしてもさほどメリットを感じず、放置された。近代、現代では、極東に位置することがアメリカの大きなメリットになり、過大な関心を持たれたために、冷戦時代は手厚い「保護」を受けた。

(辺境の島国の限界)
日本が辺境の島国であることで、限界があった。文明の発祥には、農耕が深く関与しているが、まずもって人口密度の低く、山の多いこの小さな島国で中国大陸に先駆けて農耕文化が発生する可能性は全くなかった。日本は、黄河文明の周辺国としてはじめから運命づけられていた。

日本は、国内に資源が乏しく海外交易で利益を上げるほかには、国力を大きくする道がない。イギリスも同じような国であるが、イギリスは17,8世紀にヨーロッパ大陸諸国としのぎを削り、乱暴で無法なやり方が通用した時代に、世界中の土地を手当たり次第に獲得し植民地とした。日本は、その頃国内統一をやっと成し遂げたばかりで、大陸へ進出しようとして反撃を受け撤退した。イギリスは、西ヨーロッパ諸国と切磋琢磨して国力をつけ、彼らの頂点にあったが、日本は、相変わらず中国大陸の周辺国で自己満足の国だった。

戦後、日本は世界の経済大国になった。しかし、アメリカを経済的に抜くことも出来なかったし、アメリカに影響を及ぼすような国にもなれなかった。それは、日本の戦後の出発からして当然のことである。一番になることなどできようはずがない。経済的に、常にアメリカの下位にあり、当然、政治的にも、軍事的にもアメリカの下位にあることを運命づけられている。アメリカは、広大な国土、国内に膨大な資源、そして国内に膨大な若い労働力、それに伴うこれから拡大していく膨大な内部需要を持っている。経済的に、競い合って勝てる要素があるとは思えない。

(これからの日本)
辺境の島国として、日本の生き方。それは、これまで日本が、朝鮮、中国そして東アジアの国々に関心を持ち、交易、交流をもってお互いの国を豊かにしてきたように、これからもそうすることが大事だ。日本が少し経済的、軍事的に力をつけると何かと理由をつけて、力づくで出て行こうとしたこれまでのやり方を改めて100年後、500年後、1000年後に「尊敬される日本」と言えるようなやり方を考え、実行しなければ、東アジアの国々に置いていかれることになろう。
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