日本/歴史・・白村江/動乱の東アジア

白村江/動乱の東アジア1
  なぜ、倭国は百済の救援要請を請け、白村江へ出兵したのか。
  百済の救援要請から白村江の戦までの動きを調べてみた。
白村江/動乱の東アジア2
  なぜ、倭国は百済の救援要請を請け、白村江へ出兵したのか。
  4〜6世紀の日本列島の国内状況、朝鮮半島諸国との関係をまとめてみた。
白村江/動乱の東アジア3
  なぜ、倭国は百済の救援要請を請け、白村江へ出兵したのか。
  7世紀の日本列島の国内状況、朝鮮半島諸国との関係をまとめてみた。
白村江/動乱の東アジア4
  なぜ百済復興軍の要請を受けて、白村江へ出兵したか。


2012年07月18日
白村江/動乱の東アジア4
なぜ百済復興軍の要請を受けて、白村江へ出兵したか。

(百済復興軍の派遣決定)
1)大和政権は、新しい国づくりのために唐の官僚制的、中央集権的政治制度を学ぶ必要があり、そのルートを確保する必要があった。
2)新しい国つくりのためには、政治制度だけでなく、国統一の支柱となる仏教文化、政治制度・法制度を支える漢字文化、都造営のための進んだ土木・建築技術などの移入も不可欠であり、そのルートを確保する必要があった。

3)百済滅亡以前、百済、新羅は自国に有利な関係を得るため接近してきた。大和政権は、両者のどちらにも明確に組することなく、両国より貢物、文物、人材を得てきた。こういった間に、唐が高句麗より先に百済を討伐するという戦略転換をした。このときも、大和政権は百済・新羅のどちらに組するか態度を明確にせず、事態を静観した。
4)新羅が、先に大和政権の二面外交路線に見切りをつけたため、残された選択肢は百済支援しかなくなった。

5)反新羅・反唐路線を取ったと見なされることになった大和政権は、百済が消滅した時には全く大陸、朝鮮半島への足がかりがなくなってしまう。こういった状況の下で、大和政権にとっては百済救援に応じて、百済を復興させ、文物流入ルートの途絶を防ぐ方法しかなかった。

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(白村江以降)
・大和政権は、唐・新羅の日本への侵攻を予想し、国内の防備を固めた。
・唐と高句麗は、戦争状態になり、664年、高句麗は大和政権に救援要請したが、これを拒否した。
・668年、唐驥尾下の百済から遣使があった。同年高句麗滅亡。新羅が大和政権に遣使。この後、遣唐使再開した。大和政権は、白村江の大敗の後も、遣唐使再開で文物流入ルートの途絶を防ぐことができた。

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もう少し考えてみた。

(中国・朝鮮諸国、日本の中央主権化)
1)古代、日本は中国・朝鮮半島諸国を含む東アジア諸国の一員であった。各国は抗争を続けるようになって、中央集権的国家体制の整備が不可欠になった。長期の安定的な政権維持、大規模土木工事による生産力の増大、軍事力の強化による戦争での勝利が生き残りに必要であった。
2)東アジアでは、中国が大陸中原での抗争の中、独自に中央集権的国づくりを成功させた。朝鮮諸国、日本は中国の政治制度、文化を移入するという方法で中央集権的国づくりを行った。

3)各国の国家体制づくりを見てみると、中国は早くから中華思想を理念として持つ中央集権国家づくりを進め、隋が中国を統一し、唐は大帝国を築いた。朝鮮諸国の中では、高句麗が隋・唐との抗争の中でいち早く中央集権化を進めた。遅れて、百済・新羅が中央集権的国づくりを進めた。朝鮮諸国は、三国の対立を契機とし、政治制度の改革、軍事力の整備、外交能力の強化を図ってきたのである。
4)日本の中央集権的国づくりは、中国・朝鮮半島諸国より遅れた。7世紀、推古天皇の時代に入って、部族連合的な政治制度を官僚制的な政治制度に転換しようとし始めたばかりであった。大化の改新で、中央集権的国づくりの方向を示しはしたが、実態はまだ部族連合であった。それは、白村江の派遣軍が、中央近衛軍主体ではなく、地方豪族の集合軍主体であったことにも現れている。

(中国・朝鮮諸国の期待と日本の内情)
5)7世紀の東アジアでの中国・朝鮮半島の対立・抗争は、日本(大和政権)をして大国の扱いをさせた。唐、高句麗・百済・新羅は、情勢に応じて「遠交近攻」戦略のもと、日本に接近してきたのである。大陸の辺境にある日本は、どの国からも「遠交」のくにであった。
6)7世紀の動乱の時代、唐・朝鮮諸国(高句麗・百済・新羅)の日本に対する期待は大きかったが、日本(大和政権)内での政治体制が未だ整っていなかったために、対外政策を一本化できなかった。

7)日本は辺境の島国であったために、大きな期待を受け、辺境にあったがゆえに国づくりが遅れ、朝鮮半島の抗争に巻き込まれてしまった。白村江へ出兵せず、朝鮮半島の抗争に手を貸さず、国内防備を固め、自立・自律的に国づくりを進めるという道もあったかもしれない。当時の状況では、「それでは、わが国の国づくりはどのように推し進めていくのだ」という声にかき消されてしまったのだろう。

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(参考図書)
・「日本全史」講談社 2001年
・「白村江 東アジアの動乱と日本」教育社歴史新書<日本史>33 鬼頭清明 著 (株)教育社 1981年
・「通史 六世紀までの日本列島ー倭国の成立 鬼頭清明」岩波講座 日本通史 第2巻 古代1 岩波書店 1993年
・「倭国と渡来人  交錯する『内』と『外』」歴史文化ライブラリー 199 田中史生 著 吉川弘文館 2005年
・「東アジアの動乱と倭国」戦争の日本史1 森公章 著 吉川弘文館 2006年
・「古代国家はいつ成立したか」岩波新書1325 都出比呂志 著 岩波書店 2011年

・「日本と朝鮮半島2000年(上)」(第1〜4章) NHK「日本と朝鮮半島2000年」プロジェクト編著 NHK出版 2010年
・「世界の教科書シリーズ(新版)韓国の歴史 国定韓国高等学校歴史教科書」(V 古代社会の発展) 大槻 健/君島和彦/申奎燮 訳 竃セ石書店 2000年
・日韓歴史共同研究委員会 第1期(2002-2005年) 報告書 の古代のところ
 日韓歴史共同研究委員会 第2期(2007-2010年) 報告書 の古代のところ
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posted by tamatama at 11:34|   白村江/動乱の東アジア 2012年07月17日
白村江/動乱の東アジア3
なぜ、倭国は百済の救援要請を請け、白村江へ出兵したのか。
7世紀の日本列島の国内状況、朝鮮半島諸国との関係をまとめてみた。
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(7世紀の東アジア)

(隋の統一、高句麗の対隋戦争と 百済・新羅の対立、大和政権の百済軍事援助)
・589年、隋が中国を統一した。高句麗・百済・新羅は隋の冊封下に入る。
・593年、聖徳太子、推古朝のもと、蘇我馬子と協力して国政にあたる。蘇我氏は渡来人と関係が深い。
・600年、大和政権は朝鮮3国より遅れて遣隋使を送った。
・598年から614年まで隋が高句麗遠征を繰り返している。

・602年から642年まで百済と、新羅は戦争状態にあった。大和政権は、親百済・高句麗、反新羅であった。600年、任那(加羅諸国)復興のため、兵を派遣し新羅と戦う。602年、2万5千の兵派遣を計画するが、中止。
・602年、百済から僧観勒が、610年高句麗から僧曇徴がそれぞれ、軍事援助の代償として来日。新羅は、610年、611年「任那の調」を貢進してきた。朝鮮半島諸国は、大和政権への文物贈与で協力を求めた。

(唐帝国の建設、高句麗の対唐戦争、百済の新羅侵攻と新羅の救援要請、大和政権内での親百済派・親新羅派の対立)
・618年、隋にクーデター起こり、唐が大帝国を建設。高句麗・百済・新羅は唐の冊封を受けた。
・623年、蘇我馬子が新羅征討軍を派遣し、新羅から貢納を受けることになった。
・630年、大和政権は、遣唐使を派遣。新羅を牽制した。
・631年から676年まで唐が、高句麗侵攻を繰り返す。

・641年、百済では義慈王が即位。642年、百済は新羅西部に侵攻し、伽耶の大耶城を占領した。新羅は、高句麗、唐、さらには大和政権に救援を要請した。
・642年、高句麗で泉蓋蘇文の政変が起こった。
・643年、大和政権に高句麗より対中国強硬派(泉蓋蘇文)のクーデターの知らせが届き、親百済・高句麗派と、親新羅・唐派の抗争が激化する。

(大和朝廷政変と親新羅外交への転換、新羅の唐への接近)
・645年、乙巳の変(いっしのへん)、中大兄ら蘇我入鹿を殺す
・646年、新羅へ高向玄理を派遣。大和政権は親新羅・唐路線へ転換。入唐のため新羅に接近。
・この頃、新羅は唐の衣冠導入、唐の年号採用など唐追従の姿勢を示しながらも、独自に国家体制を強化を図った。
・651年、新羅使が唐服で来朝、大和政権はこれを拒絶した。新羅の極端な親唐路線に反発した。

(斉明朝の百済・新羅二面外交、唐の百済征討決定、新羅の離反)
・655年、斉明天皇が即位、中大兄が政治にあたる。
・656年、高句麗に使者派遣。親百済・新羅許容の二面外交。
・657年、新羅に使節を送り、遣唐使の入唐同行を求めたが拒絶された。新羅は、大和政権の二面外交に見切りをつけ、659年、大和政権への遣使を中止した。

(百済滅亡と大和政権への百済救援軍派遣要請)
・660年7月18日、唐・新羅連合軍に攻められ百済は滅亡した。
・660年10月、百済遺臣鬼室福信が大和政権に救援を求めてきた。
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(7世紀の国内情勢と対外政策のまとめ)
・7世紀は、まさに動乱の時代であった。隋・唐が中国を統一し強大な帝国を作り、周辺諸国に大きな影響を及ぼした。朝鮮半島北部では、高句麗が、隋・唐と対立した。一方朝鮮半島南部では、新羅が強大になって百済を圧迫し、長い戦争状態が続いた。大和政権は、朝鮮半島からの文物流入ルートの確保のために、百済を援助し加羅地域へ兵を送り新羅と争った。

・641年、百済で強権的な義慈王が即位し、新羅支配下にあった戦略拠点の伽耶大耶城を占領した。642年には、高句麗で対中国強硬派の泉蓋蘇文がクーデターを起こし政権を奪った。これらは、いずれも、大帝国唐の脅威を国内体制強化で乗り切ろうとするものであった。

・大和政権内でも、唐の政治制度を学んだ留学僧らの教えを受けた中大兄らがクーデターを起こし蘇我入鹿を殺害、政権を奪った。翌年「改新の詔」を発布、中央集権化を進めた。新政権は、対外的には親新羅・唐であったが、引き続く斉明天皇の時代には、親百済・新羅許容の二面外交路線をとった。百済が滅亡し、百済復興軍からの救援要請が来たのはまさにこのようなときであった。

・大和政権の対外政策は、中国・朝鮮半島の変化する情勢に対応して揺れ動いた。百済とは、歴史的に深いつながりがあり大和政権内にいる百済渡来人の影響も大きかった。一方、隋・唐留学生は、隋から唐への政権の転換を肌で体験し、新しい官僚制的・中央集権的な国づくりを学んで帰ってきた。大和政権は彼らの知識を必要とした。唐、朝鮮諸国からはまだ多くを学ばねばならなかった。
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posted by tamatama at 17:41|   白村江/動乱の東アジア 2012年07月14日
白村江/動乱の東アジア2
なぜ、倭国は百済の救援要請を請け、白村江へ出兵したのか。
4〜6世紀の日本列島の国内状況、朝鮮半島諸国との関係をまとめてみた。
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(4世紀)
・前方後円墳の時代が始まった。倭国による統一が進みつつあったが、地方にも大きな勢力が残っていた。
・日本列島の諸国は、朝鮮半島南部の伽耶諸国と関係を持っていた。372年、百済から倭国へ七支刀が贈られた。百済は高句麗に対抗するために倭国に同盟を求めた。
・366年、368年、百済は新羅との修好を図っている。(「三国史記」)

・364年、百済は対高句麗独立戦争を起し369年、高句麗を撃退した。倭国は、百済の要請で391年朝鮮に出兵、共に新羅に侵攻した。399年、再び倭国は朝鮮半島に出兵し、百済と共に高句麗・新羅と戦った。倭国の朝鮮半島出兵は、朝鮮半島南部からの鉄資源の入手経路の確保のためであった。高句麗・新羅軍は百済・倭国連合軍を撃破、倭国軍は朝鮮半島南端の加羅に追い詰められた。404年、倭国軍は帯方郡にまで進攻するが、高句麗軍に手痛い敗北を喫して、一連の戦闘に幕を閉じた。(広開土王の碑)

(5世紀)
・倭の五王の時代である。倭王は、朝鮮半島からの鉄の入手によって武器、武具を整え強力な軍隊を作り、国内の武力的征圧を進めた。(478年「倭王武の上表文」・・東の55国、西の66国、海北の95国平らぐる)
・畿内に巨大古墳が次々と作られた。(古市古墳群/誉田御廟山古墳430m、百舌鳥古墳群/大仙稜古墳486m)倭国による、日本列島の統一が進み、出雲、吉備は大和政権の支配下に入った。(吉備造山古墳350m)
・倭王は、中国宋に使いを送り、官位を得ることで対立する高句麗と対抗しようとした。(421年から478年まで10回)

・4世紀末から5世紀はじめにかけて、「倭人」が新羅を侵攻した。(「新羅本紀」393年、金城を囲む、405年、明活城を囲む)。対して、新羅は402年、王子を質として送ったが、侵攻はやむことなく新羅・倭国間の緊張は続いた。同じ頃の397年、百済は太子を質として倭国に送り、同盟関係を強めた。倭国の各地首長層への統制は十分ではなく、軍事・外交権も一元的なものではなかった。

・朝鮮半島の影響を受けた前方後円墳の横穴式石室は、400年ごろ九州で始まり5世紀後半から6世紀にかけて瀬戸内から、畿内に広がっていった。旧来の祭礼儀礼が根強く残っていたが、渡来人が増えるに従い彼らの影響が強まっていった。
・朝鮮半島由来の技術に基ずく須恵器の生産がはじまり、広く流通するようになった。

・427年、高句麗は首都を平壌に移した。高句麗は領土拡張のため南進し、百済と新羅の領土を侵食した。433年、百済は高句麗の従属下にあった新羅と同盟し、高句麗に対抗した。
・475年、百済は王都を漢城(ソウル)から熊津に移した。百済、新羅は新たな領土を求めて、伽耶諸国を圧迫し、両者は対立することもあった。
・百済と、高句麗は鋭く対立した。

(6世紀)
・507年、継体天皇が即位。百済からは、五経博士、暦博士など来日。朝鮮半島に求めるものは、鉄から技術や文物に移った。これらは、大和政権の権力強化に不可欠であった。
・この頃、朝鮮半島西南部に前方後円墳が建設されている。また、武寧王の棺には日本の高野槙が使われている。日本と朝鮮半島南部との密接な人的、文化的交流を物語るものである。
・528年、大和政権は縮小する加羅での権益を確保するため6万の兵を筑紫に派遣しようとした。九州の首長連合は磐井を盟主として大規模な反乱を起こした。反乱は鎮圧され、この後武力による大和政権の日本統一への抵抗はなくなった。磐井は新羅とのつながりがあったと云われており、このころまで朝鮮半島との接触・交流はマルチチャンネルであった。

・大和政権は統一を進め、直接支配を行う屯倉を増やすなどしたが、いまだその実態は有力豪族に支えられた連合政権であった。6世紀中ごろから、各地に地方豪族の家族墓と考えられる群集墳が急増するのはその現れである。6世紀後半になると大和政権内では、物部氏に代わって蘇我氏が大きな力をもつようになった。
・大和政権が、連合政権のなかで求心力を保ち、権力を維持するためには、朝鮮半島からの進んだ技術・文物を独占的に入手し、自らの政権基盤を整え強化すると同時に、それらを各地の豪族に分け与えることが有効な方法であった。
・538年、仏教が百済聖明王から伝えられた。百済工人により飛鳥寺が造営された。

・朝鮮半島南部では、新羅が国力を増した。新羅は加羅諸国に侵攻し、532年、金官国を併呑した。その後も、侵攻を続け、ほぼ全域が新羅の領有するものとなった。
・百済は、高句麗の猛攻を受け538年、王都を熊津から泗?(しび)へ移した。

・551年、百済・新羅は共同して漢城を攻め高句麗から奪還した。しかし、553年、新羅は百済を攻め、漢城を奪い120年続いた百済・新羅の同盟は終了した。
・554年、新羅との戦いにおいて百済聖王が戦死、大きな打撃を受けた。

・百済は、高句麗との同盟を強め新羅に対抗するようになった。同時に大和政権にも接近した。大和政権は、同盟する百済の要請で、伽耶地方に軍隊を派遣するなどしていたが、加羅諸国の滅亡などで次第に影響力を失っていった。
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(4〜6世紀の対外関係のまとめ)
・4、5世紀、日本列島諸国は鉄、文物の入手を目的として、朝鮮半島南部地域との交流を行っていた。日本は、物資の供与、兵の派遣など軍事的援助をおこなっていた。百済、加羅諸国、新羅、倭国を含む日本列島諸国が並存していた時代である。

・6世紀になると、高句麗が一歩先んじ、続いて百済、新羅が部族制的なクニ連合から、官僚制的、中央集権的な国家つくりを始めた。大和政権にとっては、朝鮮半島からの文物(文化、政治制度)を入手することが、国内制度の整備、そして国内での覇権確保のための不可欠の要件となっていた。このため、朝鮮半島からの文物の入手ルートを失うことは絶対に避けなければならなかった。
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posted by tamatama at 18:44|   白村江/動乱の東アジア 2012年07月13日
白村江/動乱の東アジア1
なぜ、倭国は百済の救援要請を請け、白村江へ出兵したのか。
百済の救援要請から白村江の戦までの動きを調べてみた。

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(百済の救援要請から白村江の戦まで)
660年7月18日、百済は唐・新羅連合軍に滅ぼされた。10月、百済の将軍鬼室福信が、倭国へ救援要請の使者をよこした。12月24日、斉明天皇が百済救援のために難波の宮に移った。倭国は、百済救援にむけ、すばやい対応をしたのである。

661年4月、鬼室福信は、日本に「質」として滞在していた百済の王子豊璋の帰還を乞う上表文を倭国に送った。斉明天皇は、この年7月死去したが、8月第1陣が、鬼室福信に届ける武器・五穀を携え、朝鮮半島に向け出発した。翌9月、王子豊璋が朝廷の最高の地位を与えられ、護衛の兵5千余とともに朝鮮半島に向かった。鬼室福信ら百済復興軍は、当初戦いを有利に進め、唐が熊津都督府をおいた熊津城を包囲するまでになった。唐軍は、当時高句麗とも戦闘をおこなっており百済方面での戦いを有利に進められなった。

ところが、662年になると、高句麗軍の勢いが唐軍を勝るようになり、唐軍は高句麗前線から引き上げてしまった。同時に、新羅軍も高句麗方面から兵を引き上げた。唐・新羅軍の百済方面での活動は次第に活発になった。唐軍は、孤立していた熊津城の東の戦略拠点となる城を百済軍から奪還し、新羅からの兵糧援助を受けられるようになった。これを機に、唐軍は兵7千を援軍として海上から百済へ向かわせた。

これに対応して、倭国は、663年3月、兵2万7千を新羅を直接討つために朝鮮半島へ派遣した。6月、新羅西南の城2つを取ったとある。戦局は、百済・倭国軍に不利であった。このような状況の下、百済内部に内紛が生じた。6月、豊璋が鬼室福信を謀反の疑いがあるとの理由で斬り殺してしまった。百済復興軍の中核であった鬼室福信の死は、百済・倭国連合軍にとっては痛手であった。

唐・新羅軍は、有利な戦況の下、百済軍の抵抗拠点である周留城(州柔城とも)を一挙に攻撃することにした。ここを落とせば他の百済軍が立てこもる諸城は自然に降伏するだろうとの読みがあった。663年8月、倭国は周留城救援のために万余の軍を派遣した。8月17日、新羅軍は周留城を囲み、唐軍は戦船170艘をを率い白村江に陣列。8月27日、倭国軍は、はじめて唐軍と戦ったが苦戦、退却した。8月28日、倭国軍は唐軍と戦い大敗した(白村江の戦)。豊璋は高句麗へ逃れた。

9月7日、周留城、唐に降伏、百済人ら、倭への亡命を決定。9月25日、倭国の兵、百済亡命人ら倭国に向け出帆した。

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(参考)
・「白村江 東アジアの動乱と日本」教育社歴史新書<日本史>33 鬼頭清明 著 (株)教育社 1981年
・「東アジアの動乱と倭国」戦争の日本史1 森公章 著 吉川弘文館 2006年
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