日本/歴史・・



2012年08月14日
島根県出雲・松江地区古墳出土品
島根県出雲・松江地区の古墳出土品を調べた。

1)「蒲原神社古墳」加茂町教育委員会 2002年3月
2)「社日古墳 一般国道9号松江道路建設予定地内埋蔵文化財発掘調査報告書12」
   建設省松江国道工事事務所 島根県教育委員会 2000年3月
3)「御崎山古墳の研究 島根県八雲立つ風土記の丘研究紀要V」
   島根県教育委員会 島根県立八雲立つ風土記の丘 1996年3月
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1)神原神社古墳 出土遺物(雲南市加茂町神原 弥生時代 4世紀中頃)

(農具)鉄鍬先(方形板刃) ×1、鉄鎌 ×1、(工具)鉄斧(無方有袋鉄斧、短冊形鉄斧) ×2、鉄鉋 ×1、鉄鑿 ×1、鉄錐 ×1、鉄針 ×1、(武器)鉄製素環頭太刀 ×1、鉄製大刀 ×1、鉄剣 ×1、鏃残欠共 ×36、矢羽部分漆膜残欠 一括、(鏡)三角縁四神四獣鏡(卑弥呼が魏より贈られた100枚か) ×1、そのほか 棺材残欠、鉄器残欠、木材残欠など。以上棺内。棺外に 鉄槍(鉄剣とも)把部分残欠共 ×1、土師器(円筒形土器、壷、器台、高杯など) ×45以上、土師器壷・甕 ×5

(農工具が多数出土している)
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2)社日1号墳 出土遺物(松江市竹矢町 古墳時代前期初頭 5世紀後半)

(農具)鍬 ×1、(工具)鉋 ×2、短冊形鉄斧 ×1、袋状鉄斧 ×1、(武器)剣 ×1

(農工具が出土している。弥生時代の神原神社古墳と 農具の種類が似ている。袋状鉄斧、短冊形鉄斧がそれぞれ 一つずつ出土。神原神社古墳の被葬者のほうが、社日1号墳被葬者よりは、鏡・環頭太刀を副葬されていることから上位の位にあったことがわかる。)
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3)御崎山古墳 出土遺物(松江市大草町 風土記の丘の近く 6世紀後半)

(工具)刀子 ×2、(武器)獅噛(しかみ)環頭太刀 ×1、太刀 ×2、鉄鏃 一括、靭金具 ×1、(馬具)金銅製釣金具付轡 ×1、金銅製釣金具 2個一対、雲珠 ×1、辻金具 ×1、金銅製鈴 ×4、菱形金具 ×2 (装身具)珠文鏡 ×1、金環 2個一対、銀環 2個一対、(須恵器)高杯、壷など ×26以上、(土師器)甕 ×1、(埴輪)円筒埴輪 ×15以上

(農具は出土していない。御崎山古墳の被葬者も、副葬品からみて相当、位が高かったことがわかる。馬具一式の出土は、この被葬者が戦乱の世を抜けてすでに安定した地位を確立している示しているように思える。)
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(感想程度のこと)
1)農具の副葬は、弥生時代、古墳時代前期で終わる。工具の刀子の副葬は古墳時代を通じて行われる。農工具と一括りにできないものがあるようだ。
2)これまで農具に注目してきたが、やはり副葬品の中心は武器である。弥生時代から、古墳時代を通じてずっと太刀、剣、鏃が埋葬されている。これらの武器は、権力を誇示する威信財ということがよく言われるが、古墳の大きさは、権力の誇示になるだろうが、埋めて見えなくなるものが果たして威信財であろうか。
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posted by tamatama at 21:34| 日本/歴史・・ 2012年08月08日
備中総社の古代鍛冶遺跡
岡山県総社市の平野部にある「窪木薬師遺跡」は、古墳時代の前半から後半にかけての長い期間にわたって鍛冶製鉄が行われてきた集落の遺跡である。報告書を読むと、鍛冶による鉄器製作が「ムラの鍛冶屋」的姿から、「大規模工場」的姿に変化していった様子を窺うことができる。要点をまとめてみた。
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「窪木薬師遺跡 前川河川改修工事に伴う発掘調査」
岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書86 岡山県教育委員会 1993年3月

(遺跡について)
5世紀前半から7世紀前葉にかけての鉄器製作に関係した遺構・遺物の存在が特徴的である。

古墳時代後半期における製鉄の一大コンビナートの様相を呈している。

(出土の鉄器について)
240点の鉄器を分類し、中近世の物を除くと140点ある。
時期的には、5世紀前半の鉄?・鉄鏃の2点を除くと全てが6世紀〜7世紀前葉段階のものである。

鏃 57点、直刀 2点、鎌4点、鑿 4点、鉋 4点、刀子 3点、斧 2点、鉄? 2点、素材 4点、截断面(製作時の立ち落としの切れ端) 20点、不明 39点

直刀は、実践用ではなく儀礼用との指摘あり。滑石製の臼玉との共伴から鉄器製作の祭祀に使われたものと推定される。

農工具類のなかには、二つに折り曲げられたものもあることから、製品ではなく再生原料と考えることもできる。

(集落について)
大きく9時期の集落があった。

1期:弥生時代後期前半、2期:弥生時代後期後半、3期:古墳時代初頭、4期:古墳時代前半(5世紀前半)、5期:古墳時代後半(5世紀末〜6世紀初頭)、6期:古墳時代後半(6世紀前葉〜中葉)、7期:古墳時代後半(6世紀紅葉〜7世紀前葉)、8期:中世(13世紀代)、9期:近世 となる。

鉄器製作に関係するのは、4から6期まで。

4期:古墳時代前半(5世紀前半)
竪穴住居の床面から、鍛造薄片・ガラス質滓・鍛錬鍛冶滓が発見された。部分的に水田の畦が検出されていることから、鉄器製作の一方で水田経営も行っていたらしい。

5期:古墳時代後半(5世紀末〜6世紀初頭)
竪穴住居が一軒検出されたが、鉄関係遺物は確認されなかった。ただし、床面から滑石製の臼玉が15点確認された。集落周辺には水田跡は確認されなかった。

6期:古墳時代後半(6世紀前葉〜中葉)
集落の立穴住居にはほとんど例外なく床面から鉄滓のの出土が認められた。臼玉を中心とする滑石製品が多く検出された。

近くには、大量の鍛冶分離滓等の廃棄があり、木炭を焼成したと考えられる窯の存在等、明らかに鍛冶製作を主目的とした集落であったことをうかがわせる。また、祭祀を行ったと考えられる比較的大型の掘立柱建物が見つかった。

7期:古墳時代後半(6世紀後葉〜7世紀前葉)
鍛冶炉・鍛冶工房・廃滓場・鍛冶用炭材焼成窯等の存在により、集落全体に鍛錬鍛冶を中心とした鉄器製作の在り方をうかがうことができる。掘立柱建物は群として発見されている。

古墳時代前半期は、1〜2基の鍛冶炉を中心に数軒の竪穴住居と掘立柱建物を伴うといった小規模な状況であったが、古墳時代後半期には、集落跡から検出した鉄滓の量が195kgという多さになったことからも窺えるように社会的に増大する需要に対応すべく集落内でいくつかの工程を分担し、鉄器の大量生産を図るための大規模・専業化した鉄器製作集落になっていったと考えてもいいのではないだろうか。

(まとめ)
確実にいえることは、
1)岡山県総社平野に位置するここでの鉄器製作の開始は、明らかに5世紀前半まで遡り得る、
2)鉄器製作の専業化の兆しが6世紀前葉ないし中葉には認められ、さらに6世紀後葉には確立していた、
の2点である。

(以上報告書の結語のまとめ)
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少し考えてみた。

(農具の普及について)
出土鉄器は、古墳時代後半の専業化が進んだ段階のものである。鏃は武器、直刀は祭祀用刀である。鎌、鑿、鉋、刀子、斧など農具や工具もあるが、製品なのか原料なのかわからないと報告書は述べている。いずれにしろ、この時期、これらのものが一般に広く普及していたことが窺われる。そして、この「鉄器製作大規模工場」の主要製作品は武器であったと想像される。

5世紀前半には、鏃が製作されている。5世紀には「ムラの鍛冶屋」的業態であった。「ムラの鍛冶屋」なら、吉備の首長配下にあったとしても農具である鍬、鎌をもっぱら製作していたと思いたいが、どうであろう。やはり、鏃など武器を主体として製作していたのであろうか。

(製鉄の開始時期)
集落遺跡の、古墳時代前半から後半への変遷は、「ムラの鍛冶屋」から、「鉄器製作大規模工場」へ移り変わりをよく示している。この遺跡の近くに6世紀後半の製鉄遺跡「千引カナクロ谷遺跡」がある。ここ窪木では、5世紀は「ムラの鍛冶屋」的業態であり、専業化し「鉄器製作大規模工場」へ移行するのは6世紀になってからである。5世紀に製鉄が始まったということを否定するものではないが、やはり本格的に製鉄が始まるのは6世紀になってからなのであろうか。
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posted by tamatama at 16:00| 日本/歴史・・ 2012年08月05日
岡山県備前地区古墳出土品
岡山県備前地区古墳の出土品について、調べた。
(参照)赤磐市山陽郷土館
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1)正崎2号古墳(赤磐市正崎) 古墳時代前期(5世紀)
(参考)「岡山県山陽町埋蔵文化財発掘調査概報 正崎2・4号古墳 付浦山遺跡ほか」岡山県山陽町教育委員会 1989.3月

埋葬遺体は2体ある。第1主体に副葬品が多い。

第1主体
木棺 2.6m×0,9m 高さ不明
棺台と考えられる20cm×20cmの割り石が4個、また、枕石と考えられる7cm×15cmの割り石が1個ある。赤色顔料が棺内全体に認められる。

副葬品 鉄鏃 ×45(約20本の束が2つ)、鉄鎌 ×1、銅鏡 ×1(布に包んで棺内に入れた)、管玉 ×6(首飾り)、馬具 ×12(鏡板、引手、辻金具等。20cm×20cmの範囲で黒色のうるし状膜があり、木鞍が置かれていた可能性がある。)、直刀 ×1(104cm×3.5cm、茎部20cm)、鉄剣 ×2(90cm×5cm)、甲冑 ×1(短甲×1、冑×1)、三環鈴 ×1(銅製)、鎹 ×11、土師器 ×1 (ここまで報告書内容)


正崎2号墳 発掘状況


正崎2号墳 出土した甲冑

農具は鉄鎌が一つだけである。装身具は首飾りの管玉がある。葬送の副葬品として銅鏡がある。そのほかは、武具・馬具が大半である。副葬品として、このような組み合わせを選んだ当時の人々の「思い」はどんなものであったのだろう。鉄鎌は、埋葬に先立つ葬送儀礼で、どのように扱われていたのであろうか。被葬者は、農耕儀礼を司る立場にあったのだろうか。それとも、鉄鎌は、葬送儀礼の中での一つの「小道具」でしかなかったのであろうか。農耕儀礼の残像があるならば、鍬(くわ)よりは、収穫に使った鎌(かま)のほうがふさわしい!

副葬品の大半が、武具であることからこの集団の軍事を司る権力者であったことは間違いない。銅鏡は、被葬者が「銅鏡支配ネットワーク」の一員であることを示しているのだろうか。
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2)岩田14号墳(赤磐市山陽)古墳時代後期(6世紀後半築造、7世紀初頭まで追葬)
(参考)「岡山兼営山陽町新住宅市街地開発事業用地内埋蔵文化財発掘調査概報(6)岩田古墳群 他野山第2・5号墳三蔵畑遺跡」岡山県山陽町教育委員会 1976.3月

20mの円墳で、横穴式石室を持つ。石室全長11.8m、玄室長5.5m、玄室巾2.4m。
玄室内部には、7棺あった。そのほかに先行する被葬者が数体あったことが伺われる。

出土遺物
(土器)須恵器 ×168、土師器 ×32、(装身具)金環 ×15、玉類 ×46、(工具)蕨手刀子 ×2、刀子 ×2、(武具)直刀 ×5、環頭太刀 ×2、剣? ×1、短刀 ×2、鉄鏃(尖) ×60、鉄鏃(平) ×24、(馬具)鏡形杏葉 ×5、雲珠 ×1、轡 ×2、鐙鎖 ×3、鐙飾金具断片 ×5、鞍飾金具断片 ×7、辻金具 ×8、ホ具 ×7、(そのほか)鉄釘 ×68、鎹 ×28、滑石製紡錘車 ×2 (ここまで報告書内容)


岩田14号墳 出土した轡(くつわ)


岩田14号墳 出土した杏葉(ぎょうよう)

農具はない。大半が、武具・馬具であり、環頭太刀が2本埋葬されている。先行する被葬者のものらしい。「環頭太刀支配ネットワーク」の一員であることを示しているのであろうか。かなりの身分、権力者であることを想像させる。工具として、刀子が埋葬されている。数は少なく、葬送儀礼の中で「守り刀」のような位置付けだったのであろうか。
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副葬品として今に残るのは、須恵器、土師器、鉄製品、銅製品などで繊維製品、木製品は残らない。埋葬品には、衣服などの繊維製品はもちろんあっただろうし、木製農具などもあったのかもしれない。
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posted by tamatama at 12:09| 日本/歴史・・ 2012年07月19日
弥生・古墳時代の鉄器の普及
広島県立歴史民族資料館(広島県三次市)に、弥生時代後期から古墳時代後期までの古墳から出土した農工具、武器・武具の展示があった。(2012年7月16日訪問)

古代の鉄製道具の普及の様子を知るために、弥生時代後期、古墳時代前期・中期・後期に分けて整理した。古墳時代中期の亀山第1号古墳は副葬品全品の数であるが、そのほかは展示品の数である。
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(古代の鉄製農工具・武器・武具の普及)

(弥生時代後期)
1)西願寺墳墓群(広島市安北区)(農具)鎌×2、(工具)斧 ソケット×1、斧 袋状×1、ヤリガンナ×1、刀子×2、鏨×1、鑿×1、(武器)剣×1
2)浄安寺遺跡(広島市佐伯区) (武器)鉄鏃×3
3)石鎚権現遺跡群(福山市駅屋町)(武器)鉄鏃×1

4)鍵向山墳墓群(東広島市高谷) (武器)磨製石鏃×1
5)手島山墳墓群(東広島市豊栄(とよさか)町)磨製石鏃×2
そのほか、小型の石鏃展示多数

(古墳時代前期)
1)中出勝負峠(なかいでしょうぶだお)第8号古墳(山県郡北広島町) (工具)鉄斧×1、ヤリガンナ×1、(武器)鉄鏃×1、鉄槍×1
2)横路小谷(よころこたに)第1号古墳 (農具)鍬先×1、(工具)刀子×1

(古墳時代中期)
1)亀山第1号古墳(福山市神辺町)(出土品全数)(農具)鉄鎌×2、(工具)鉄斧×3、刀子×11、ヤリガンナ×1、(武器)鉄刀×1、鉄剣×5、鉄鉾×3、鉄槍×2、鉄鏃×15、(武具)短甲×1
2)地蔵堂山第1号古墳(広島市安佐北区)(農具)鍬先(先丸)×1、(工具ほか)刀子×1、針×1、(装身具)鋏具(かこ・バックル)×1、(武器)鉄鉾×、鉄鏃×2
3)月見城第5号古墳(広島市佐伯区)(農具)鉄鎌×1

4)月見城第2号古墳(広島市佐伯区)(農具)鍬先(先丸)×1
5)大明池第2号古墳(広島市安佐北区)(農具)鉄鎌×1、(武器)鉄族束×1
6)真亀第3号古墳(広島市安佐北区)(武器)鉄刀×1、(馬具)兵庫鎖×1、轡(くつわ)×1

7)寄貞第8号古墳(三次市西酒屋(さけや)町)(農具)鉄鎌×1
8)稲荷山D2号古墳(三次市三良坂町)(工具)鋸×1
9)四拾貫(しじつかん)小原代1号古墳(三次市四拾貫町)(武器)鉄鏃(大型)×15、鉄刀×1、鉄剣×1

(古墳時代後期)
1)大風呂古墳(庄原市板橋町)(武器)鉄剣×1
2)才ノ谷第1号古墳(福山市駅屋町)(工具)刀子×3
3)上野部古墳(安城高野市高宮町)(馬具)杏葉(ぎょうよう)×1、雲珠(うず)×1

4)千坊谷第6号古墳(福山市駅屋町)(武器)鉄鏃(大型で精巧)×2
5)山手第3号古墳(広島市安佐北区)(武器)鉄鏃(大型で精巧)×2
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(鉄の普及のまとめ)
1)農具は、弥生時代後期に鎌が現れ、その後も形を変えずに古墳時代後期まで使われた。鍬先は、古墳時代前期に現れ、中期には、先丸の鍬先が使われ始めた。後期には、古墳副葬品から農具が消えた。
2)工具は、斧、ヤリガンナ、刀子、鑿、鏨など弥生時代後期には、ほぼ出揃った。古墳時代中期には鋸が出現している。

3)武器は、弥生時代後期に剣、鏃が現れている。しかし、大きさが小さい。武器の種類が増えるのは、古墳時代中期である。鉄刀、鉄鉾、鉄槍が現れた。また、武具として短甲、馬具ととして轡(くつわ)などが現れた。武器は、古墳時代後期になって鉄剣の大型化、鉄鏃の大型化、精巧化が見られる。馬具も、後期になって精巧なものが副葬されている。
4)鉄製農工具、武器・武具は古墳時代中期に内容が豊富になり、普及が進んだように見える。古墳時代後期の武器の大型化は、実際に使用するために大きくなったのか、副葬品として大型になったかはわからない。

(鉄の国内生産)
1)戸ノ丸山遺跡(広島県庄原市)、白ケ迫遺跡(三次市三良坂町)で、古代製鉄遺跡が見つかった。古墳時代後期のものと考えられている。四拾貫町小原第16号古墳(三次市四拾貫町)からは鉄滓(てっさい・スラグ)が、上野部古墳(安城高野市高宮町)からは鉄鉗(かなはし)が出土した。どちらも、古墳時代後期のものである。
2)鉄の国内生産がいつ頃始まったかは、諸説ある。上に見たように、古墳時代中期(5世紀)に、鉄製道具の種類が増え、量も増えたように見えることから想像すると、このころには鉄の国内生産が相当量増加していたのではないかと思われる。
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posted by tamatama at 13:23| 日本/歴史・・ 2012年04月29日
弥生銅戈にもあった鋸歯紋
2012年4月28日

島根県立古代出雲歴史博物館で開催されている、開館5週年記念企画展「弥生青銅器に魅せられた人々 −その製作技術と祭祀の世界−」を見に行った。今回の展示は、島根県古代文化センターが平成21年度から3年間にわたり実施したテーマ研究「古代出雲における青銅器文化の特質に関する研究」の成果をふまえたものとなっている。

出雲とその周辺、九州、瀬戸内、四国、近畿などの銅矛、銅戈、銅剣、銅鐸が満遍なく展示されておりこの地域の青銅器文化を知るには、都合の良い展示内容であった。しかし、展示を見て、青銅器文化はまだまだ謎だらけという印象を改めて強く持った。


企画展 図録 (オールカラー 94ページ)

(内容)
第1部 弥生青銅器の世界
    第1章 青銅器の輝き/第2章 進化する祭器・弥生青銅器
第2部 青銅器文化の広がり
    第1章 副葬品から祭器へ 北部九州地域/第2章 独自の青銅器が生み出す世界 瀬戸内地域
/第3章 青銅器への深いっこだわり/四国南部地域/第4章 青銅器へのあこがれ 関東地方

第3部 青銅器に魅せられた人々の世界
    第1章 山陰地域の青銅器/第2章 大量青銅器の時代とその終焉
第4部 弥生青銅器の匠に迫る
    第1章 工匠、出雲に来る/第2章 鋳造の匠/第3章 磨きの真髄

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朝9時に入館し、博物館の展示説明員の方に案内してもらいながら、2時間くらいじっくりと見た。これまでは、銅鐸にしか興味がなかったが、今回、銅矛、銅戈、銅剣について多くのことを知ることができた。12時退館。

(銅戈に描かれた鋸歯紋)

桜ヶ丘銅戈(兵庫県・桜ヶ丘出土)弥生時代中期〜後期
実物でも、くっきりとは見えない

(銅剣に描かれた鋸歯紋様)

古津路遺跡銅剣(兵庫県古津路遺跡)弥生時代中期
この鋸歯紋様は複合鋸歯紋というらしい。

(その他)
・和歌山県山地(上の段)出土の銅戈    :格子状の模様があった 弥生時代中期〜後期
・島根県命主社境内(真名井遺跡)出土の銅戈:綾杉紋風の模様があった 弥生時代中期

・北九州隈・西小田遺跡第7地点出土の銅戈 :模様なし 弥生時代中期
・大分県吹上遺跡4号甕棺出土の銅戈    :模様なし 弥生時代中期
・その他の銅剣には 紋様はなかった。展示の銅矛には紋様はなかった。

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(少し考えたこと)
1)弥生時代の人々にとって、鋸歯紋は、霊力、呪力を強く感じるもののであったろう。祭器の霊力、呪力を強めようとする時に描かれるのは、流水紋、渦巻紋ではなく、鋸歯紋であった。
2)鋸歯紋のルーツは、稲作発祥の地、中国西南部の銅鼓あたりにあると思っている。稲作と同時に入ってきた、古代祭祀儀礼には、鋸歯紋の霊力、呪力に頼るものがあり、稲作草創期には農耕祭祀儀礼に関係したものとして銅鐸に盛んに重大な意味を持つものとして描かれた。祭器としての青銅器は中期にさまざまな形に発展し、その後、後期へと時代が進むにつれ農耕祭祀儀礼は形骸化し、かろうじて鋸歯紋のみが霊力、呪力の源として人々の中に受け継がれ、そして銅戈、銅剣にも描かれた。

3)弥生社会が、ムラからクニへと変化するにつれ農耕祭祀儀礼の重要性はだんだん薄れていった。権力の集中が進み、威信財、ムラのつながりの象徴として銅矛、銅戈、銅剣が重要なものとなるにつれ、農耕祭祀儀礼とセットだと思われていた鋸歯紋は姿を消していった。

以上、「鋸歯紋、三角形オタク」の私がとりとめもなく考えてみた。もう少し、じっくり考えてみたい。
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(2013.1.17 追記)

「鋸歯紋は、境界を表す」
1)中国銅鼓の表面文様は、天界(上面)、地上界(側面)、水界(側面)に分かれており、それぞれの境界を鋸歯紋あるいは櫛目紋で仕切っている。
2)古代弥生時代の銅鐸の表面文様は、最外側が鋸歯紋になっておりこれは銅鐸内部文様の霊的世界を外界とを仕切るための文様と思われる。

3)吉備地方で発達した特殊器台の文様は、脚部に鋸歯紋が描かれることが多い。これは、特殊器台のもつ霊的世界と外界とを仕切るための文様ではないだろうか。
4)古墳時代に多数出土する三角縁神獣鏡は、内部に霊的世界、神仙世界を表現した文様が描かれている。そしてその周囲を鋸歯紋が、内部世界と外部とを仕切るかのように描かれている。

5)弥生銅鐸では、内部に描かれた流水紋に霊力が宿り、鋸歯紋は単に境界を示す文様であった。鋸歯紋に欠けた部分があるとそこから霊力が逃げてゆく。そのため、鋸歯紋はきちんと描かれなければならなかった。
6)弥生末期になると、流水紋など霊力を表す文様は次第にその意味が薄れ、境界を表す鋸歯紋のみが形式的なものとなって人々の間に残った。そして、鋸歯紋はその形を単純化させ、祭礼用の高坏(タカツキ)の脚部や皿部外周を飾る文様としてその姿をとどめるのみとなった。

以上は、2012年に各地の博物館や埋蔵文化財センターの鋸歯紋巡りをしながら考えたことである。
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posted by tamatama at 19:10| 日本/歴史・・ 2012年03月01日
「古事記の起源」工藤 隆著
「古事記の起源 新しい古代像をもとめて」 工藤 隆著
中公新書 中央公論新社 2006年

を興味深く読んだ。古事記読み直しの方法と、筆者の古事記を現代に活かす姿勢をまとめた。

(参考)
「古事記以前」 工藤 隆著 大修館書店 2011年
「中国少数民族と日本文化 古代文学の古層を探る」 工藤 隆著 遊学叢書25 勉誠出版 2002年
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(『古事記』読み直しの姿勢)

縄文・弥生時代から紀元後500年くらいまでを<古代の古代>と呼び、『古事記』登場以前の無文字時代のヤマト族の古層のことば表現を、中国少数民族、オキナワ民族、アイヌ民族などの口誦のことば表現を素材として作ったモデルから推測する。

『古事記』の作られた600〜700年には、ムラ社会は形を変え、クニから国家の成立がなされた時期で、古事記には国家の意思が強く反映している。しかし、もともとムラ社会に存在した神話を元に作られた『古事記』には、その原初的な内容が変質した形で存在している。それを、「原型生存型民族」の口誦表現モデルから推測するのである。

(原型生存型文化)

原型的な生存形態≠ニは次の特徴を持つようなものである。
1)縄文・弥生期的な低生産力段階(採集・粗放農耕的水準)にとどまっていること、
2)電気照明、ラジオ・テレビなどの電気製品、プラスチックなど化学製品、電話などがなく、自動車用道路、自動車もなく、水道もないなど、いわゆる近代文明の産物がないこと、

3)言語表現は、基本的に無文字の音声言語表現であり、歌う神話や歌を掛筈ノ風習などを持っていること、
4)宗教は、教祖・教典・教義・教団・布教活動という要素の揃った「本格宗教ではなく自然と密着した精霊信仰(アニミズム)とそれを基盤にした原始呪術(シャーマニズム)若心になっていること(仮に本格宗教が流入していても、アニミズム・シャーマニズムの側に引き寄せて変形させてしまっていること)、

5)世界観は、自然と密着したアニミズム・シャーマニズムを背景にした神話世界を中心に据えていること、
6)国家樹立を目指さないし、仮に国家らしきものを作っても弱小であること。

この原初的な生存形態の全体を”原型生存型文化”と呼び、これらを維持してきた中国少数民族の実態資料からモデルを作り、そのモデルによって「古事記」を研究していかなくてはならない。このとき、特に3)が重要で、ある。

(変質した神話の8段階)

神話は、現代までにその姿、形を変えている。最も原型的なものから8段階の区分わけをおこなった。記録された神話資料がそのどの段階にあるかを見極め、「古事記」から、「古事記」以前の姿を探っていかなくてはならない。

第1段階 ムラの祭式と密着した歌う神話(最も原型的)
第2段階 祭式とは別の場で作為的に歌われた神話
第3段階 語り口調で語る神話
第4段階 散文体で説明し、話す神話
第5段階 複数のムラの神話が合流した神話
第6段階 聞き書きや文字資料を取捨選択して再構成した神話
第7段階 国家意思と個人意思で貫かれた神話(『古事記』はこの段階の書物)
第8段階 国家によって権威づけられた文字神話から派生した変化形の神話

筆者は、中国少数民族イ族に残る創生神話「ネウォティ」を現地でその全文を採集し、それからモデルを作って、『古事記』の読み直しを行った。
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その内容は、興味深いものがあるが、省略。

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(最終章「結ー古事記と日本」のまとめ)
参照(P251〜281より 抜粋、下線は追記)

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結−古事記と日本

(急激な近代化がもたらした危機意識)

「600〜700年代は、当時の先進国の中国からの、国家運営に必要なあらゆる分野の新しい知識・技術が流入した時代である。これは、明治の近代化にならって<古代の近代化>と呼んでいい。」逆に言えば、「明治の近代化は、<古代の近代化>の、装いを変えた繰り返しだった。」

当時の人々にとって「<古代の近代化>における異質な外来文化の圧倒的な流入は、ヤマト的なるもの、すなわちヤマト族の存在の根拠をなすアイデンティティーの危機を浮上させた。」そして、それは「<危機意識>としては自覚されずに、主として<情念>の領域に火山のマグマのように密かに煮えたぎっていたのであろう。『古事記』を生み出した源のエネルギーは、このマグマにあった。」

(政治的実権から遠ざかる天皇神格化)

700年代の政治状況は、神格化された天皇を中心に、中央集権化が進んだ時期であった。実際には、「天皇の神格化とは現実政治と遮断されたところに祭り上げられる≠アとでもあった。」天皇が、「政治の実権から遠ざかっていくのは必然だったのである。」元明天皇は、漠然とした<危機意識)、無力感、空虚感のうちにあり、思いを同じくする太安万侶をして、古事記の編纂にかからせた。

(古事記は古への回帰)

「『古事記』は、律令体制と文字文化の進行という〈古代の近代化)の現実的な流れから見れば、時代に背を向けた書物≠ナあり時代に遅れた書物≠セったことになる。」「『古事記』の遅れ″とは、人間の生存の原点に直結する原型生存型の文化に対する執着の表現でもある。」その執着があるがゆえに「『古事記』は、時代の流れに抗した書物≠ナもあった。」

「『古事記』を読むということは、その遅れ≠フ内実を把握し、そのプラス性とマイナス性を見極めることである。」「『古事記』を論じることは、日本文化論・日本論の全体にかかわる根源の部分の内実を明らかにすることである。」

(古代国家成立期以来の二重構造)

「神話的世界の特徴の一つは、内向きであることである。もともとムラ段階の社会における神話は、その社会の内側を秩序づけることに第一の意義を持っているので、自分たちの外側の社会との関係は重視しない。そのようなムラ段階の神話は、国際関係を意識するリアリズムの目が求められる国家段階にまでは生き延びられないのが普通だ。しかし、日本古代国家においては、原型生存型のムラ段階の神話が国家の中枢部において継承され、書物としては『古事記』や『日本書紀』『万葉集』に凝縮された。また祭祀面では伊勢神宮を頂点とする国家祭祀体系として整備された。」

「その結果、国家に求められるリアリズム性と、ムラ段階の神話的・呪術的世界の反リアリズム性という、逆方向のものが同時存在する社会構造が形成された。」

「象徴天皇制という形にはなったが、六〇〇〜七〇〇年代の<古代の近代化>以来の、リアリズム性と反リアリズム性の同時存在という伝統が現代でも生きていることになる。」

(原型的な生存形態から知恵を借りねばならない)

「現代日本文化の基層には、縄文・弥生期にまで届く、自然と密着したアニミズム(精霊信仰)・シャーマニズム(呪術体系)文化がしっかりと根づいている。」

「こういった<古代の古代>的要素と近代的要素の両方を同時に生きている現代日本に生を享けた私たち日本人は、これからは、自らの原型的な生存形態の文化のプラス面は成長させ、そのマイナス面は制御することのできる知性を育てていく必要があるのである。」

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posted by tamatama at 16:40| 日本/歴史・・ 2011年12月13日
稲作は半島から伝わった
(長江流域が稲作発祥の地)
稲作が中国大陸の長江流域から伝来したのは、ほぼ間違いないところだ。紀元前4000年頃には、杭州湾に面した河姆渡遺跡で、稲作が行われていたことがわかっている。さて、この稲作が、どのルートをたどって日本にきたかについては、諸説ある。台湾から沖縄を経て島伝いにきたという説、杭州あたりから東シナ海を渡って直接きたという説、そして華北あるいは山東半島を経由して朝鮮半島から伝わったという説である。現在は、山東半島を経由して朝鮮半島から伝わったという説が有力だとのこと。

(東シナ海の大海原には漕ぎ出さない)
私は、今年の夏、沖縄、屋久島、そして対馬でシーカヤックを楽しんだ。その経験からいうならば、縄文時代の頃に大陸から直接、人が渡ってくることは不可抗力による漂流の場合以外には考えられない。杭州湾と有明海の距離はざっと見て800kmある。カヤックをしていて海に漕ぎ出す時、目標の島影が見えていない場合、ここを行けば必ず先に陸地があるという確信がなければ、とても先に進む気にはならない。それは、中国に住む古代人も同じであったと思う。土地を求めていくならば、陸伝いに北上するか、南下するだろう。先の見えない海の果てに漕ぎ出すわけがない。


目標が見えない大海原

(朝鮮半島から対馬なら渡れる)
朝鮮半島から、対馬、壱岐を経て、九州までであれば、目標とする島影がつぎつぎ見えるので、行こうという気になる。釜山と対馬の間は約45kmである。対馬・釜山間の対馬海峡を横断するカヤックの旅は今、実際に行われている。私は、これまで瀬戸内海で14km離れた島へ渡るのに3時間あまりかかかった。45kmだと、ほぼ10時間で行き着く。それも、休み休みでだ。海へ漕ぎ出すのに、目標が見えているのと、見えていないのとは大違いなのだ。


目標が見えれば行こうという気になる

(ポリネシアの人はやむにやまれず漕ぎ出した)
ポリネシアの人々は、筏で数千キロをわたっているではないかという人もいるだろう。しかし、彼らは、小さな島で人が増えるにつれ、全員の食糧確保が難しくなり島を離れざるを得なかったのだ。島で餓死するくらいならということで、筏で海へ出たのだ。そして、残念なことだが大半は海の藻屑となり、運の良かった場合だけ次の島へたどり着きそこで定住したのだ。

(稲作は、朝鮮半島から伝わった)
大陸から古代人が、籾と稲作道具を積み込んで東シナ海の大海原に漕ぎ出す理由が見当たらない。数十年に一度、あるいは数百年に一度、大陸からの漂流者が有明海に到着したかもしれない。しかし、その漂流者が都合よく籾を運んで来ていたとは到底考えられない。稲作の伝来は、籾、稲作道具、稲作技術、そして稲作儀礼がセットで伝わってきている。漂流者が、運よく一握りの籾をもってきたというような状況ではなく、ある集団が意図的に稲作を日本にもたらしたと考えるほうが自然である。

稲作は朝鮮半島から伝来したのだと思う。
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posted by tamatama at 21:13| 日本/歴史・・ 2011年12月03日
縄文の祈りから弥生のマツリへ
稲作の開始は、狩猟・採集・漁労を主要な生業とする縄文の人々の祈りの形を変えた。

(祈りからマツリへ)
稲作の伝来は、稲(種籾)と共に、稲作の道具、稲作の技術、そして稲作にかかわる祭礼がセットであった。

縄文の人々の祈りは、単純であった。収穫は自然の恵みであった。自然の恵みに対しての感謝と、その恵みが続くことへの願いが「自然の再生への祈り」となった。自然と縄文の人々の関係は、狩猟・採集・漁労という一方通行的なもので、単純な関係であったから、その祈りもシンプルで希薄なものであった。

ところが、稲作は収穫までの工程、作業が複雑であった。田を作り、種籾をまき、途中で雑草や害虫に気を使い、そしてやっと秋になって収穫が出来た。その収穫の時期の台風は、これまでの努力を一瞬にして無駄にしてしまうものだった。

森へ行って木の実を採ったり、森へ入ってシカを弓矢で射ることに比べれば、稲作は数段複雑で、さらに、狩猟・採集は数日、長くても数週間程度のサイクルの仕事であったが、稲作は1年サイクルの「大ばくち」の仕事であった。作業工程の複雑さと、人知を超えた自然の振る舞いへの対応の複雑さが、弥生の人々にこれまでにない緊張感を強いたことであろう。

弥生人の祈りは、強力でなければならなかった。そうでなければ、安心して暮らせなかった。縄文人の一番の祈りは、自然への対応ではなく、自分たちが生き延びることと、子供たちの成長であった。稲作で、秋の収穫さえ出来れば食料確保が出来ることになった弥生人の一番の祈りは、とにかく秋の収穫の成功であった。強力な祈りを達成するために、祈りは複雑・大がかりになり、「マツリ」となった。

(祈り、マツリの変遷と人々)
マツリの作法は、稲作とともに伝わってきた。縄文の人々がこれまで行ってきた祈りの作法は、次第に稲作のマツリの作法にとってかわった。銅鐸を使ったマツリは、土偶の祈りに比べれば、数段、強力で、弥生の人々を安心させるに十分であった。

下に、祈り・マツリの変化をまとめてみた。銅鐸のマツリは、稲作とともに始まり、古墳時代になって共同体首長が神格化されカミとなるに従ってすたれて行った。天のカミ、地のカミへ願い、祈りを伝えるマツリは、不要になったからである。そういったマツリ=祭祀は、共同体首長に吸い上げられた。そして、人々は、仕組みの中での主体性を失い、これまでと違う緊張関係のもとに生きることとなった。
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(祈り、マツリの変遷)
        縄文時代     弥生時代        古墳時代        
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世界の   自然の力     自然の力(天候・地力) 自然の力(天候・地力)
支配力   =人の力(生殖) >稲作技術       >=稲作技術(大規模灌漑)
                   ・集団の力        ・集団の力
祈り・    自然(森・動物)  自然(天候・土地)   自然(天候・土地)      
マツリの   人の生殖力
対象
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祈り・    家族        稲作共同体の首長   地域の共同体の首長    
マツリの 
主体

依拠する  自分の力     天・地のカミ       神格化された首長(カミ)
力                                の力
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緊張関係  希薄        大             首長にとっては 小
                                  人々にとっては 大
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弥生時代 銅鐸のマツリ
奈良県立橿原考古学研究所付属博物館 展示品

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(付録)
−農耕が変えた縄文人と弥生人の自然観−
「文明ネットワークの世界史」宮崎正勝著 原書房 P3、4からの引用

〔穀物という雑草に頼るようになった人類
 人類は長い歴史の99パーセント以上を「生<なま>の自然(生物圏)」の中での狩猟、漁労、植物の採取によってすごしてきました。それぞれの自然環境と「生命の循環」を生かし数十種類から数百種類の食料を得ることで安定した生活を送っていたのです。ところが先に述べた「農耕・牧畜の出現(農業革命)」で、人類は森や草原を焼き払って「畑」に変え、野生のムギ、アワなどの選別した作物(穀物)を栽培するようになりました。言うならば、身近な所に生えている雑草に生命を委ねるようになったのです。
 
 狭い土地でも多くの収穫が得られる農業は、人口を飛躍的に増加させました。乾燥地域に「畑」が広がり、自然条件の悪い地域が逆に人類史をリードする地域に姿を変えたのです。狩猟・採集民が一人生活するのに10平方キロが必要であるのに対して、ステップの農耕民が生活するには500平方メートルでよかったということですから。「畑」の人口扶養率は極めて高かったのです。そこに農業の優位性がありました。

 ラテン語の「耕すこと(cultura)」が「文化(culture)」の語源になっていることからも理解できるように、農業の普及が人間が支配・管理する「第2の自然」(畑)を広げ、人類の自然観も大きく変わったのです・

 「生の自然(生物圏)」での狩りや植物採集に依存する狩猟・採集社会では、自然に対する豊かな知恵がなければ生活を維持できなかったために、人類は自然現象に神々を見いだす自然崇拝(アニミズム)で、自分たちの生活の舞台を説明していました。

 ところが農業が定着すると、人々の生活は穀物の収穫に依存するようになり、畑の生産力を回復する土地神(地母神)、穀物を実らせる神(穀霊)が新たな崇拝の対象になりました。「畑(大地)」と「穀物」という「人間圏」に関わる神々が崇拝の対象になったのです。

人々が一定地域に定住するようになると、特定の土地と人間の結び付きが強まりました。道具としても、植物の繊維を切るのに必要な研ぎ澄ました磨製石器、穀物の貯蔵・調理用の土器などが多く作られていきます。この時期は、農作業に必要な新しい石器が登場する時代という意味で、「新石器時代」とも呼ばれています。〕
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posted by tamatama at 21:04| 日本/歴史・・ 2011年11月26日
年越し備蓄が序列を生んだ
(縄文家族と弥生家族)
当時の生活を想像してみた。



==紀元前500年 縄文家族の会話==
父 26歳 母 23歳 子供(女)6歳

父「やっと春になったか。今年も、何とか冬が越せたな。」
母「ずいぶん心配したけれど、まだ木の実が残っているし、
  子供の好きなシカ肉の燻製も少し残ったわ。」
父「去年は残り少ない木の実や肉をみんなで分け合ったな。
  今年は、弓を新しくしてシカをもっと捕るようにしよう。」
子「私も木の実をたくさんとるようにする。お父さんも、弓の練習もっとしてね。」

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==紀元前100年 弥生家族の会話==
父 30才 母 25歳 子供(男)9歳 子供(女)7歳

父「もう春が来たか。今年の冬は、暖かかったな。」
母「そうね。去年はお米の出来が良かったから、安心して冬が越せたわ。
  冬に、シカを2頭も捕ってくれたのも助かったわ。」
父「うん、あれはみんなと一緒に捕ったんだ。
  新しい弓は、前のより遠くまで飛ぶんだ。
  今年は、米が残ったから倉をもう一つ作るようにみんなと相談するかな。」
子「お父さんは、米つくりが上手だからたくさんできるんだね。僕にも、教えてよね。」



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(年越し備蓄の余剰と序列の発生)
縄文家族も、弥生家族も1年の食料計画を立てて生活をしていたに違いない。食料獲得がきびしくなる冬に備え、年越し備蓄をしていたことだろう。そして、春が来て、食料が余っていれば、それが余剰生産物であった。

縄文家族は、食料が足りる年も、足りない年も集落の家族と食べ物を分け合った。共同の食料ではあったが、食料備蓄に貢献の大きい家族とそうでない家族では、親族であっても、序列がついてしまうことがあったかもしれない。

弥生家族は、米つくりが上手であった。しかし、それは彼だけでなく、彼の住む集落全員がそうであった。米つくりに適した土地に恵まれたうえに、米つくりの工夫が代々、受け継がれ近隣の集落の中でも、米の余剰が最も多かった。毎年の余剰は、わずかであっても米生産が少なく、足りない集落に対しては大きな「力」になった。そうして、彼の集落(共同体)は、近隣の集落(共同体)に対して大きな発言力を持つようになった。

(共同体のリーダー)
縄文時代は、狩のうまい下手で序列ができ、弥生時代は、米つくりの生産量で序列ができた。彼らは毎年の年越し備蓄で、生産の剰余を知った。そして、彼らが意識するしないに関わらず、その余剰生産物が、彼らの間に序列を作っていった。有力な共同体首長ができてゆく過程のスタートはこんなものだったに違いない。
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(画像は荒神谷博物館 展示ガイドブックより)
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posted by tamatama at 21:27| 日本/歴史・・ 2011年10月18日
たたら製鉄と近代の幕開け1
2001年10月15日

古代出雲歴史博物館の企画展「たたら製鉄と近代の幕開け」を見に行った。
関連講座を聴講した。


たたら製鉄と近代の幕開け

「たたら製鉄は、砂鉄と木炭を原料とした我が国独自の製鉄法です。その中心は良質な砂鉄と恵まれた中国山地にあり、幕末から明治初めの最盛期には国内の鉄生産の量の約9割を占めました。たたら製鉄は、開国に伴う安価な洋鉄の流入や洋式製鉄の本格的化によって、次第に衰微し、大正年間には姿を消すことになりますが、たたら製鉄が近代の幕開けに果たした役割について考えます。」(パンフレットより)

(展示)
1)たたら製鉄とは
「先大津阿川村山砂鉄洗取図」(砂鉄採取、たたら製鉄、炭焼き、運搬などの工程を網羅した絵図)、「鉄山必用記事」(江戸後期のたたら製鉄の指南書)が展示されていた。実物を見るのは初めてで、感激した。
2)たたらの技術と経営
3)江戸から近代の民需と軍需


右「たたら製鉄と近代の幕開け」(企画展ガイド)お勧め
左「山陰におけるたたら製鉄の比較研究」(専門的)

(講演)
「近世後期におけるたたら製鉄業経営の展開」 13:30〜15:00
講師 鳥谷智文氏(松江工業高等専門学校 准教授)


鳥谷智文氏
聴講参加者100人

内容
1.出雲地域におけるたたら製鉄業
・明治初年の松江藩の各郡の物産表を見ると、鉄山経営がなされていた4郡では、鉄関連製品が米に匹敵する売上げをあげていた。
・4郡の鉄山師の数は、文政、安政、文久、明治5年にかけて変わらない。最も大きな鉄山師である田部家は、この間、増産が顕著であった。

2.鉄師の経営を支える手代機構ー田部家の場合ー (この話は面白かった)
・田部家には、手台が38人いて、事務方と技術方とがいる。あるとき、手代が45人に増えた。田部家での鉄増産が見て取れる。
・「定十・善平・平太郎・真蔵4代の手代職務履歴」
 4人は、世襲。定十は、24年、善平は52年、平太郎は9年、真蔵は、16年にわたって田部家で働いた。田部家で事務方支配人、番頭をしたり、たたら現場・鍛冶屋で支配人をしたり5年くらいでローテーションしている。

・「名原六郎兵衛・名原好三郎の手代履歴」
 親子。六郎兵衛40歳の時、好三郎が14歳で同じ職場に入った。ほぼ4年親の元で見習いをして、違う職場に移っていった。その後、別々の職場で働いていたが、六郎兵衛が58歳、好三郎32歳になって同じ職場で働くようになり、2年ほど、共に働いて六郎兵衛、退職した。
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posted by tamatama at 11:47| 日本/歴史・・ 2011年09月11日
対馬/海岸で青磁片拾った
9月3日 
長崎県対馬市厳原町豆酘(つつ)の海岸


豆酘の海岸

1時間で、100個くらいの陶片を拾った。波の打ち寄せる海岸で、石はどれも丸い。見つけた陶片もすべて角が丸く取れているものばかり。半分あまりが表面が緑っぽい色をしている。

坊津でも、対馬でも海岸に出るたびに陶片を拾ってきたが、ここで初めて表面が緑っぽいものを見つけた。いつ頃のどのような由来のものかはわからないが、とにかく嬉しい。波にもまれてすり減っているところが、また何ともいえず愛おしい。

本当に青磁なのか、いつ頃どこでつくられたものなのか、いろいろ知りたいが手掛かりがない。

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(サンプル1)
拾った中で最も大きく内側に釉薬が残っていてつるつるしているもの。高台部分の破片のように見える。


釉薬が残っていて、つるつるしている。緑色は薄い。


断面と、表面とは色が違う。断面には、小さな穴があいている。


薄い緑色が残っている。


緑色がない。

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(サンプル2)
緑色の釉薬がはっきりと残っているもの。裏面は、釉薬の塗っていない部分がある。高台部分の破片のように見える。


角に緑色の釉薬が残っている。


釉薬を塗っていない部分がある。


断面に小さな穴があるが、サンプル1ほどではない。

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(サンプル3)
かけらで、緑色が比較的はっきりとしているもの。


全体が緑色。表面はざらざらしている。


一部分だけ緑色が残っている。

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posted by tamatama at 14:03| Comment(2) | 日本/歴史・・ 2011年01月23日
土地私有の感覚
中世以前、農民は自分の田や畑を自分の私有物とは考えていなかった。土地はそこにあって、力の強いものに自分の土地だと証明してもらい所有の権利を他者に主張するような形だった。下は、中世における土地の所有権争いの話である。
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(「菅原文書」に見る土地訴訟)
 1917年(大正6)のこと、滋賀県西浅井郡菅浦の鎮守須賀神社から、1200点あまりの中世文書が発見された。この文書群は、”開けずの箱”といい伝える櫃に収蔵されていて、それまで村人で見たものはいなかった。菅浦は琵琶湖の最北端付近、竹生島に向き合って湖中にせり出した半島にへばりつく寒村で、陸の孤島とも言うべき僻地であった。

 地理的に局限された諸条件から、平安中期以来この地に住み着いた人々は漁労と舟稼ぎを生業とし、自ら天智天皇の供御人(くごにん)の末裔と称し、身分上は朝廷に供御を献ずる供御人でありながら、領地は山門檀那院末時竹生島領という、中世によくある人格と土地の二重支配を受けていたのである。このような漁民に、せめて米麦くらいは自給自足したいという欲求は強く、隣村大浦庄の一部である日差(ひざし)・諸河(もろかわ)という狭小の谷地(やち)に出作・開発をしていた。大浦の領主園城寺(おんじょうじ)の課役を免れるため、菅浦では朝廷と山門の権威を背に、日差・諸河の田畠は古来菅浦領であると強弁・主張し、1296年(永仁4)、院の評定所に出訴した。この後、150年に渡る両庄の争いが続くことになる。

 出訴に至る経過からわかるように、日差・諸河の実態は大浦庄内の出作田地であり、裁判の理が園城寺側にあることは明らかで、菅浦の漁民は悲願の自立を達成するために無理を承知で院の評定に出訴したのである。訴訟は、双方の領主である山門と寺門との代理戦争の色彩を帯び、朝廷もうかつに結論が下せず、1309年(延慶2)ごろから審理停滞の状況に陥った。1445年(文安2)まで小康状態を保っていた菅浦・大浦のこの争論は、両庄の入会地であった大浦山への、菅浦住人の立ち入りを一方的に大浦庄側が通告してきたことに端を発し、武力衝突を伴う事件となった。双方とも事件の顛末を幕府に出訴したが、この時菅浦庄民の英雄とも言うべき乙名清久郎の八面六臂の活躍と奔走で、ついに、1446年末、日差・諸河は菅浦に属すという歴史的な判決が幕府から下った。
(以上 集英社版「日本の歴史」第9巻 P165〜169から抜き書き、一部書き直し)
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菅浦庄では、谷あいの荒れ地を開拓して自分たちの田畠にしたのであろうが、その土地が隣村を治める園城寺領の土地であったので自分たちの田畠と認めてもらうため「お上」の力に頼ったのである。両庄の人々には土地は私有物ではなく、そこにあって「お上」にその所有を認めてもらい初めて安心して使えるものであった。裁判で勝っても、その土地が菅浦庄の人々のものになるわけではなく庄として使用権利が与えられるだけであった。だから、その時の裁判記録を記した書き物を世代が替わっても大事に保存しその権利を子孫に伝えたのである。

中世の人々にとって土地は、「そこにあるもの」という感覚しかなく、誰かのものだという感覚はなかったのであろう。「お上」のものというくらいの感覚はあったかもしれない。そして「お上」からその所有を認められても、誰か個人の所有物としてではなく、庄全体の所有物という感覚であっただろう。土地は、個人の持ちものではない、(さらに言えば自分の体自身も自分個人のものではない)という感覚が中世以前の人々の感覚であっただろうと思う。この感覚は、中世以前の縄文時代以前にもさかのぼる時代に出来上がり、その後連綿と受け継がれてきた感覚ではないだろうか。

永く私は、ここで取り上げた中世の土地を巡る争論がなぜあるのか理解が出来なかった。それは、今の私の私有に対する感覚をベースに考えるているからだとやっとわかった。昔の人の私有の観念のありようを考えるのに、私有制度に取り囲まれ、私有の感覚に慣れ親しんだ今の感覚をベースにして考えてはいけないとわかった。私有の感覚だけではなくもっと広く、昔の人の考え方、感覚に思いを致すときにはその感覚が歴史にあらわれた時より以前の歴史をベースにして考えなければならないと思った。
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posted by tamatama at 18:13| 日本/歴史・・ 2010年09月22日
人が多すぎる
人は、今地球上で最も栄えている哺乳類である。その栄え方は、少々度を越して地球全体のキャパシティを越えつつあるように思える。哺乳類の中で、人がどのくらい地球の資源を使っているか調べて見た。下の数値は、日本の野生動物と人の推定現存量である。世界のそれを知りたかったが、データを見つけられなかった。

(野生生物と人の推定個体数と推定現存量)

     推定個体数  平均重量     推定現存量
人      1億  × 70  kg = 700万トン
アカネズミ 3億  × 0.04kg = 1.2万トン
タヌキ    200万× 4   kg = 0.8万トン
シカ     80万 × 80  kg = 6.4万トン
ツキノワグマ2万  × 95  kg = 0.2万トン

参考)環境省 自然環境局 生物多様性センター
   第2回 生物多様性国家戦略懇談会(H13.4.10)

野生生物は、自ら食物を作ることはないから 大体、一つの種で1〜10万トンの体重×個体数が 今の日本の国土の養える量であろう。人は、自ら農業や漁業を営み、栽培、養殖をして 国土の自然が養える量の70〜700倍の消費をしている。食料自給率 50%前後だから、半分は輸入に頼っている。

縄文時代の日本の推定人口は10万人くらいだった。狩猟、採集生活ではこれくらいが日本の国土の養える人口だったと思われる。今、日本に住んでいる人の数は、日本の国土のキャパシティを遙かに超えているように思う。

人の出生の調節をすることは、個人の権利の問題や倫理・人道上の問題があるだろう。国力がその国の人口と不可分なこともあって、人為的な出生調節は他の国がとやかく言えることではない。しかし、今の世界の人口は65億、2050年には90億になろうとしている。地球の上で、人が共倒れしないようにしなければならない。
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posted by tamatama at 06:41| 日本/歴史・・ 2010年08月14日
日本の人口推移
縄文時代は、日本の人口 推定10万人
弥生時代は、100万人

広い日本にパラパラっとしか人がいない状況
徐々に増えて

奈良時代は 600万人

平安時代 700万人
平安時代 京都に住む貴族は 3千人と聞いたことがある
紫式部は 3千人のコミュニティのスター

戦国時代は 1000万。
戦いに駆り出される雑兵が1万ならば 0.1%
ここから急速に増えて 

江戸時代は 3000万人で安定。
江戸の人口は 100万人 で 3%、男が女に比べ随分多かったそうだ

明治維新以降、急拡大で、1億人に
東京の人口は 1000万人 で 1%

今、日本の人口は1億2700万人。
これからは、人口は減少の一途。

2100年には、6000万人になるという予想も
日本の国力は、落ちる一方!

国内では、山村、漁村の過疎は当然。地方都市の衰退も当然
高度成長を見てきた私には、やや寂しい

(参考にした本)
「人口から読む日本の歴史」 鬼頭 宏著 講談社学術文庫
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