新見市神郷町 三室地区 現地訪問
(08.9.27)

三室山鉄山の稼業地を特定するために、三室地区を訪ねた。また、現地の方にお話を伺った。

1)かなくそ捨て場を見つけた。明確なかなくそ捨て場は、730m林道分岐(三国山登山口)のすぐ下流。
2)たたら操業が行われていたと思われる場所を2か所推定した。730m林道分岐広場と、もう少し下流の支流沿い平地。

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(かなくそ捨て場の発見)
1)三室川本流沿いのかなくそ捨て場
三室川を川沿いに歩き、かなくそが川に見られなくなる場所を特定した。舗装路から三国山登山口へ入る分岐地点から、川沿いに川の中のかなくそを確認しながら上流へ歩いた。


川の中のかなくそ 20cm大
小さいものもたくさん落ちている

川の中に、かなくそが数多く見つかる場所があった。その横の斜面を20cm掘り起こすと多量のかなくそが見つかった。

斜面を掘り起こして見つけたかなくそ。撮影のために集めてある。

斜面の上は、土と杉小枝で埋まっているので掘り返すことはしなかった。ここは川に近すぎることからかなくそ捨て場で、たたら稼業はもっと山沿いで行われていたと推定。場所不明。

さらに川を遡行する。川は、標高730mの林道分岐点で2方向に分かれている。本流の左俣はかなくそがない。小さい流れの右俣はかなくそが落ちていた。ここらあたりは、広場のようになっている。
川分岐の20m下流が、かなくそ捨て場になっていた。

 
左 かなくそ捨て場 奥に川が流れている。右が上流。    
右 かなくそ捨て場のかなくそ

2)支流のかなくそ捨て場
730m分岐の200m程下流に北側から、三室川に流れ込む支流がある。ここに、かなくそが落ちていた。
支流の斜面にもかなくそ が落ちていた

    
左 支流の様子
中 支流の右岸の川沿いの広場 ここでかなくそを探したが見つからなかった。
右 支流右岸の斜面に落ちていたかなくそ 磁石弱く付く

 
左 支流の中に落ちていたかなくそ  
右 支流の中にあったお椀のかけら 「東陽軒 平八製」とある。模様はプリントで、大正後半から昭和はじめのものらしい。大正期には、この地ではたたら製鉄はすでに終焉を迎えていたので、たたら関係者が使用したとは考えにくい。ちょっと、残念。

(たたら稼業推定位置)
@川分岐のかなくそ捨て場の上流。(登山口表示のあるあたりの広場)
A北側支流の右岸の広場
三室鉄山の稼業の中心は、730m分岐広場あたりと思われる。

(現地での聞き取り)
三室で 地元の方にお話を伺った。
1)たたら製鉄を行っていたと思われるのは、三室川上流、宮ノ谷川上流、青笹川の滝の下の公園の所(カメガハラ)。
三室川上流と、青笹川は確実。宮ノ谷川はよくわからない。
2)宮ノ谷川では、鉄穴流しがおこなわれていた。水路跡の石垣が残っている。

3)家に、昔の「村と鉄山師とのたたらの取り決め」古文書がある。


(河井 継之助(かわい つぐのすけ)のたたら製鉄訪問:
以下 岡山県古代吉備文化財センターHP から 抜書き
 「山田方谷とたたら製鉄 文/岡山県古代吉備文化財センター 澤山孝之」 )
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「河井継之助の手紙
 継之助が西国遊学から江戸に戻って、両親に宛てた万延元(1860)年4月18日付の手紙に、「…前之三月廿四日備中松山を立、長瀬と云山田之宅江同廿八日迄逗留、翌廿九日雨、山田を辞し、関備前守城下新見宿、晦日晴、油野村之鉄山木下万作と申者之方江参り、両日逗留、製鉄之仕方を見物…」といったくだりが見られます。
 この手紙のなかに登場する「山田」とは方谷のことであり、「油野(ゆの)村」は、現在の岡山県新見市神郷油野を示しています。そして、「木下万作(きのしたまんさく)」なる人物は、鳥取県日野郡日南町阿毘縁(あびれ)の出身で、製鉄業を主な家業とした大庄屋であり、数多くの鉄山を経営して販路を広め、大いに家を栄えさせたとされます。その後、万作は故郷を離れ、この「油野村」に移り住んでいたようです。


河井継之助の手紙(長岡市郷土史料館所蔵)

木下家の鉄山経営
 ところで、明治政府は明治6(1873)年に「日本坑法」と呼ばれる鉱山法を定めて、鉄山経営者が鉱山の試掘や借区開坑を行うための許可願を提出することを求めました。
 その当時、先の「油野村」が属する旧小田県に提出された届出をみると、「嘉永六丑(1853)年九月 備中國哲多郡油野村字大成山 一鑪壹々所 木下昌平 右者明治七(1874)年参月借区願」および「嘉永六癸丑年九月 同郡油野村字大成山 一錬鐵鍛冶壹々所 木下昌平」という記載が認められます。
 さらに、油野村からは木下三郎平といった名義で届出が出されていますが、この三郎平と昌平とは兄弟であり、彼らの父親が継之助の手紙に登場した万作にあたります。このことから、同村での鉄山経営にこの木下家が大きく関わっていたことがうかがえます。では、継之助が目にした鉄生産の現場とはどういったものだったのでしょうか。」
以上 文化財センター記事
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河井継之助は、三国山北側の峠を越え伯耆の国へと旅したとある。この途中に、三室山鉄山のたたら稼業地がある。彼は、大成山鉄山を見たのかもしれないが、当然道すがら この三室山鉄山も見ているはず。考えるだけで楽しい。(TKN記)

(08.9.28)(08,9,29)



岡山のたたら製鉄

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