広島県庄原市西城町 三坂地区、東城町 小奴可地区 現地訪問

(08.12.10訪問)(08.12.15訪問)

道後山東を流れる持丸川上流では、かって盛んに鉄穴流しによる砂鉄採取がおこなわれた。上流での鉄穴跡地は、一見してそれと分かるものであった。

また、持丸川上流ではたたら製鉄も行われたようだ。かなくそを見つけた。

(鉄穴跡地)
持丸からの道後山林道の標高910m付近。

鉄穴跡地
下に示す図、「鉄穴流しによる地形改変場所(航空写真による) 」の赤丸地点


(溜池)
上の跡地の上流に、鉄穴流しの溜池と考えられる池があった。写真右が上流側で、写真左下が池の土手になっている。写真手前が水出口で、今は池には水がない。

溜池

(資料)

鉄穴流しによる地形改変場所(航空写真による) 
出典「中国地方における鉄穴流しによる地形環境変貌」 貞方昇 渓水社 資料2 鉄穴流し跡地区分図 P90 部分)
ゴシック文字、赤丸はTKN記入

道後山南面一帯は、かって鉄穴流しが盛んに行われた。道後川、持丸川を流れる水が利用されたと考えられる。

(かなくそ)
月見ヶ丘駐車場から岩樋山西に延びる登山道でかなくそを見つけた。登山道に散乱していたので、よそから持ってきたものかも知れないが、いづれにせよこのあたりでたたら製鉄も行われていたようだ。


かなくそ (その1)


かなくそ (その2)
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(持丸川上流でのかなくそ散在地)
持丸川右俣に沿って600m程上った林道でかなくそを見つけた。
 
写真右、左  かなくそ

(持丸集落にある圃場整備記念碑そばにあったかなくそ)

かなくそ
持丸川は、よく大洪水となったらしい。護岸工事、圃場整備記念碑 が立っておりそこでかなくそを拾った。

(小奴可地区の鉄穴跡)
上述記念碑の場所から見た持丸川右岸の山980m峰の山裾が、いかにも鉄穴跡地らしい様相を呈していた。確認はしていない。
近くの人に聞こうと思ったが、誰も表に出ていないので聞けなかった。


鉄穴跡地と思われる地形

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(小奴可地区のたたら製鉄)
角川日本地名大辞典(広島)より抜書き、下線はTKN記入。

「道後山南麓の三坂野原は、中原・西の両家の所有地であったといわれるが、砂鉄採取と開田が進められ、寛文4年当村から分離し三坂村となった。鉄穴数は、安永9年54、弘化3年49、嘉永年間47(本口数32、落口15)で郡内最多(奴可郡村鉄穴帳)。東城川下流の高梁川流域農民の鉄穴流し反対訴訟は、天保11年から6年間に及んだ。鉄穴残丘が水田の中に散在。文政年間には、持丸鈩が鉄山師常右衛門により操業され、ほかに持丸川西鈩・板井谷鈩があった。・・・・・
農間余業には、鉄穴作業・鈩用の炭焼・駄送などがあった。持丸山・猫山・板井谷山は、鈩用の木炭供給山に藩が指定。猫山周辺は奴可郡鉄山業の中心地で「同じ住むなら猫山三里」「猫山三里の内で食えぬ者は、どこへ行ってもやってゆけぬ」という里諺がある。」

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(持丸での聞き取り)
持丸で60代の方に、いろいろとお話を伺った。08年12月20日。
1)たたら集落は、道後山林道の入り口付近にあった。大きな集落で持丸はかっては栄えたところだった。
2)もう一か所、かなくそが山になっているところがあった。
3)野だたらは、持丸川の上流のあちこちで行われていた。
4)鉄穴流しによる砂鉄の採取は、持丸川の右側の上流(三国山トンネルのほう)でも、左側の上流(道後山林道のほう)、どちらでも行われていた。砂鉄採取の水路などは、見かけない。
5)ここらあたりでは、鉄山師の家はない。鉄山師は、山陰のほうから来たようだ。
鳥居に奉納した鉄山師の名前が刻まれている。行ってみてみるとよい。
6)持丸山という山はない。このあたり一帯の山を持丸山というのだろう。名谷山も聞いたことがない。あの山(1177峰)には名前はない。以前は。道後山で雄牛、三国山のほうで雌牛を放牧していた。その頃は、牛の管理をするため、山の中や、県境に小道があった。今は、荒れているだろう。
このあたりの山は、国有林ではなく村の所有で、尚和会という協同組合のようなものを作って管理している。
7)持丸は、持丸中、持丸上といい、その上をたたらに関係した名前で呼んでいる。養魚場のあたりだが、度忘れした。
8)「猫山三里」と、このあたりでは云う。このあたりは、米、炭、そしてたたらで裕福だった
などなど。

(鳥居を奉納した鉄山師)
持丸にある、鳥居に刻まれた 「鉄山師 友右衛門」の名前は、「奴可郡村々鉄穴帳(安永九)」に載っていた。安永九年は1780年で、鳥居の奉納された明和二年、1765年の15年後。少し隔たりがあるが、同一人物と思いたい。

以下、その部分の抜書き
表紙
安永九歳
奴可郡村々鉄穴帳
子五月改リ

鉄穴御検地  寛永二丑年
同 御 改   寛文十一亥年
同 御 改   安永九子年

一  鉄穴五十四口  小奴可村
   此御運上銀三百二十九匁九分
(中略)

大蔵田壱口  水上おいせより取来申候 

   たわ  虎之助
   持丸  友右衛門
   田ノ原 市郎右衛門

此御運上銀拾匁 

(後略)
出典:東城町史 備後鉄山資料編 P152
             
東城町史 備後鉄山資料編 P24 に宝暦・天明期に伯耆の国から来て活躍した鉄山師として 絹谷友右衛門の名前が挙げられている。


 
鳥居 
 
左 「施主 金夷師 絹谷友右衛門」
右 「明和二年 乙酉 五月吉日」 (明和二年:1765年)

(08.12.12)(08.12.18)(08.12.22)(09,1,20下線部)



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