新見市神郷町 釜村地区 現地訪問(07.12.17訪問)
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ガイドブック「新ルート 岡山の山 百選」の天銀山の項に ふもとの池がかんな流しの
堀跡に出来たものだとの記載があり訪問した。

1)池
砂鉄採集のために掘った穴か、かんな流しのために水をためた池か不明。
立派な土手があり、穴という感じではない。



2)溝
上の池に入る溝と、出てゆく溝があった。下の写真は、池に入る溝。

かんな流しが行われていたのは、この地域では明治初頭までで100年も前のこと。
その後、牛の放牧場になり、さらにスキー場になった。かんな流しの水路が残っているとは
考えにくい。それらしく見えるが。



3)「なる地形」と、その下流にある広い田
大忠(おおただ)地区は、西を流れる三坂川の支流上流域にあたる。池周辺には「なる地形」が
広がり、その下手に広い田が広がるが、かんな流しの現場としては近接しすぎている。


「なる地形」


大忠地区の田


5)竹の谷タタラ跡 訪問
「岡山県万能地図」(山陽新聞社)に掲載の「竹の谷タタラ跡」 を探して三ヶ市より北へ入ったが、見つけることが出来なかった。

地区の方に、お話を伺った。(昔というのはいつごろのことか定かでない。)
@タタラ跡は、あったが道路造成などで一部壊されたりしている。

A竹の谷地区は、「竹の谷系統牛」で有名なところ。この地区でたたら製鉄、かんな流しが広く行われていたとは聞いていない。
谷には、昔は大きな屋敷もあり、お宮もあったが今はない。

B竹の谷の 谷入り口山の上に昔、お城があった。「城前(じょうのまえ)」、「屋敷」という名前が残っている。

C釜村とは、線路(伯備線)から東の広い範囲を言う。一帯では、牛の放牧が盛んであった。
大忠地区では、もっぱら牛の放牧を行っていた。大忠地区でのかんな流しのことは知らない。

以上であった。たたら製鉄は、この地区が牛の放牧で栄えた前のことで、この地区でも語り継がれていないように感じた。

帰宅後、「竹の谷系統牛」のことを調べると、畜産史HPに詳しかった。全国的にも有名らしい。
また、千屋牛で有名な太田辰五郎は、代々鉄山師であり、たたら製鉄で財をなしその財でもって牛の品種改良に乗り出し
成功を収めたとのことであった。

釜村は、新見藩の藩営鉄山「久坂山鑪」があったところで、このあたりで、かんな流し、たたら製鉄が行われたのは確か。
しかし、その痕跡は地名と地形のほかにはほとんど残っていない。

(07,12,19)




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