丸山鉄穴場遺構
(09.5.30訪問)

広島県三次市粟屋駅東方300m、高谷山麓 (通称 郷の奥)に現存する鉄穴場跡を訪ねた。
この日は、広島県立歴史民俗資料館 で行われた講演 「たたら製鉄に携わった人々 −技術の系譜」(比治山大学教授  島津 邦弘)を聞きに行った。資料館の学芸員の方に 丸山鉄穴場の調査記録、現地地図をいただき 講演の後、現地訪問した。

参考 「高谷山山塊に残る鉄穴流し遺構について1」 平川孝志 (広島県立歴史民俗資料館研究紀要 第6集 2007年)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


現地説明 1


現地説明 2


砂溜
西側から見ている。 道路拡幅で大部分埋められて舗装道路の下になってしまった。写真左に 一部残っている。


初池 
上流から見る。幅1.5m×長さ10m×深さ 1m(目測) の水路状の池がよく残っている。池は2条になっており、写真の左に同じような池があるとのこと。今は、埋まってしまっている。掘り起こせば、同じような石組が出てくるとの現地古老の話。


中池
初池に続く、2条の池を上流より見る。写真左の池は残っているが、写真右に位置する池は、ほとんど埋まってしまっている。
2条の池は、出口で集合し、1条の乙池につながっているようだが、明確ではない。


井手
道路より、一段高い山の中腹にあった。道路脇の溝が、井手かと思っていたら、現地古老に「それは違う、山の中腹にある」とのことで、案内していただいた。


井手の曲がり角にある石組。
土砂流があたるところを補強してあった。

(現地聞き取り)
鉄穴場の保存維持をされている古老からお話を聞いた。
1)この鉄穴は、江戸時代に 出雲で飛脚屋をしていた先祖が来て開いた。
2)代々、鉄穴師として采配をふるっていた。山の中腹には、小屋があって多くの人が住んでいた。
3)このあたりで、かなくそがあるところは知らない。
4)鉄製品は、川舟で 「松原」へ運び、そこから馬車で 広島へ、さらに船で大阪へ運んだ。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
鉄穴場や、井手は田畑や道路の造成で、埋められたり削られたりしている。人々の暮らしと、遺構の保存とが折り合わないことも多い中で、現地の方々や、公的機関の方々の尽力で丸山鉄穴場はいい形で残っている。
現地を訪れ、働いていた人々の気配を感じることができ、大変感激した。

(09.5.31)



岡山のたたら製鉄

表紙へ