カタカネと芋原・吉川地区

吉川・芋原地区には、金くそ散在地が2ヶ所ある。関連する情報をいくつか。
時代が、古代、中世、近世のこと、そして 明治になってからのことが 雑然としているが、情報として記述。

(カタカネ)
1)カタカネ地名は、「備中国新見御庄 文永八年辛未領家御方正検畠取帳」(東寺百合文書)に記載あり。
カタカネらしい地名は、「備中国新見御庄五分一田畑漆文書(文永十年)(東寺百合文書)」で、「堅かね」(かね は鐵 の口と王が隹になった字。)として、見ることが出来る。

2)「堅鉄」は、「延喜式」の内匠寮の項に文言あり。読み方不明だが、おそらく カタカネ。(「鉄から読む日本の歴史」窪田蔵郎著 講談社学術文庫 P122・・・・延喜式原文まで確かめる元気なし。)

カタカネ里では 古代、中世よりたたら製鉄が行われていたと思われる。上吉川上流、芋原集落の谷奥金くそ散在地でいつ頃、どのようにたたら製鉄が行われていたのか、まったく不明。古代、中世の製鉄場所は、まったく別の場所だったかも知れない。

3)カタカネの金くそは、大きな山(!)ほどもあったが、道路を作るときに運びだし、道に敷いた。金くそは、タイヤを傷めるので、その上に土をかぶせたとのこと。

(芋原)
4) 「備中国新見御庄 文永八年辛未領家御方正検畠取帳」(東寺百合文書)東吉川のところに、「家前」地名が出てくる。家前は いえのさき と読み、現在の芋原集落、あるいはその近辺のことらしい。(「備中国新見庄資料」瀬戸内海総合研究会編 国書刊行会 復刻原本発行昭和27年 発行昭和56年 挿入図=備中国新見庄図。さらに、東寺百合文書も、この本の内容。)

芋原地区での聞き取りで 田の名前に「家前」(いえまえ)があった。たまたまの一致か、「家前(いえのさき)」が、時代が下って「家前(いえまえ)」になったのか、不明。また、「家前(いえのさき)」の読み方も、根拠不明。


「備中国新見庄資料」挿入図 部分 (吉川、芋原地区近辺、カラーでの書き込みはTKN)
赤点線 伯耆往来
青点線 芋原集落の西を通る道 (地図に点線で道の記載あり、それをなぞっている。昭和27年発行だから、地図はそれ以前のもの)
     芋原集落の奥の谷から、川へ下り「カタカネの親分」の家のそばを通り、上吉川の集落へ登る道となっている。
     ここから足立へも、山道があったようだ。
草色  川沿い、広い範囲に荒れた田畑の跡がある。

5)カタカネからの川と、芋原集落からの川が合流し 足立にて、西川へ注ぐ。合流後の川には、川底に20cm大の金くそがあった。

金くそ  20cm大 
大きさから考えて、芋原集落谷奥からと思われる。
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(カタカネと堅

「鉄の文明史」(窪田蔵郎著 雄山閣)から抜書き P131〜135

第5章 中国・韓国の鉄
「・・・・
中国の北宋時代(960〜1126年)に丁度という名の学者が勅命によって編纂した、宝元二(1039)年刊の『集韻(しゅういん)』という辞書があった。この本には206韻の分類によって5万3525字の漢字が収録されており、日本で通常使用している漢字の10倍、当用漢字の15倍にも当たる量である。
・・・
日本で最も古い年代の文字になると、例えば『記・紀』や『続日本紀』などではの字を用いている。この文字は『集韻』に収録されているが、日本では『類聚三代格』『政治要略』さらに『日本三代実録』などにも用いられ、養老・延喜年間の頃に「備前国鍬」とか「中宮・採」といった記述に再三使われている。
 しかし、この鉄という漢字は中国の古文献を探すと、とても三つや四つではない。・・・・・・はっきりと鋼に相当するものでは『集韻』のル(ケン)」・・・・、があげられ、鉅(キョ)にも『荀子』や『史記』によると堅い鋭い鉄の意味がある。『説文』の金皆(カイ)にも良い堅い鉄の含みがある。」

(右は、中国古文献に見られる鉄という漢字)
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以下 TKN記。

中国鉄文化が圧倒的に優位であったことがわかる。
カタカネ地名 は「東寺百合文書」では、堅と漢字記述したものと、そのままの片仮名記述のものがある。
カタカネは、鋼のことを意味していたらしい。

(地名カタカネと、単語カタカネ)
カタカネが、歴史の中でどう使われてきたかを調べるとこの地域の製鉄の様子、歴史がわかってくる。
延喜式(901年ごろ)  延喜式に「堅金」の記述あり、単語カタカネ が使われていた。
東寺百合文書(文永8年 1271年ごろ) 今の上吉川の上流あたりをカタカネと呼んだ。カタカネ と 堅の両方の記述あり。
江戸時代 カタカネは、上吉川村の一部になり 村の名前にはならなかったが、呼び名は残った。

(単語カタカネは、いつまで使われたか)
現在、鋼のことを「ハガネ」とは言うが、「カタカネ」とは言わない。単語カタカネそのものを、今は使わない。
延喜式(901年ごろ)は、鋼のことをカタカネと呼んでいた。
東寺百合文書(1271年ごろ)で、地名としてカタカネがつかわれているが、それ以前にこのあたりで製鉄を行っていたので、昔からの呼び名でカタカネと呼んだのか、この頃にまだ鋼、鉄の意味で単語カタカネが使われていて当時もここで製鉄がおこなわれていたのでカタカネと呼んだのか。このころに、カタカネが単語として一般の人の口にのぼっていたのかそうでないのかがわかるとよい。

江戸時代は、カタカネという単語は死語となったのか、それとも使われていたのか。死語となったのなら、いつまで使われていたのか。カタカネは地名としてだけ残っていたのか。この時期、このあたりでたたら製鉄がおこなわれていたことは確からしいので、そのこととカタカネ地名との関連はどうなのか。

(とにかく、歴史の中のカタカネを探す)
ごちゃごちゃして整理がつかない。とにかく、カタカネが、歴史の中で単語としてどう使われていたか、特に備中ではどうか、・・・・・・がこのあたりの製鉄の歴史を知るための一つのポイントのような気がする。・・・知りたいのは、三坂、上吉川上流、芋原集落谷奥の 3か所でのたたら製鉄の歴史。すべて、江戸期には稼業されていたらしいが、いつ始まったかが知りたい。

「鉄から読む日本の歴史」窪田蔵郎著 で、延喜式に「堅金」があることを知ったが、「金」は、どの字だったのか。少なくともシンプルな金ではないようだ。の字も 窪田蔵郎氏の著書で知った。字 一つにこだわって、ある地域のたたらの歴史を知ろうとするのも骨が折れる。(・・・・・調べものは、たいてい先達がいてすでに調べがついている。しかし、自分で、いろいろ調べるプロセスが楽しい。ゆっくり、ゆったり、楽しみながら・・・。)

(08.6.29)

(08.6.27)(08.6.29)




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