伯耆往来(その1) これまで、天銀山の近辺でたたら製鉄跡を3ケ所見つけた。天銀山の北では三坂、南では上吉川、芋原の3ヶ所で、上吉川ではかって天銀山の峠を越えて鉄を運んでいたとお聞きした。芋原では、街道の話、宿場の話をお聞きした。 ちょうど今、岡山県の備中県民局では、地域活性化を狙いに「鉄の径」キャンペーンを展開している。 たたら製鉄が盛んだった頃の人の行き来はどうなっていたのか知りたいと思い、古い資料からこの地区の街道筋を探ってみた。 (備中国地図) 貞享四年(1687年)、元禄元年(1688年)頃 本図は、岡山県立図書館郷土資料の古地図デジタルアーカイブにある。 これを見ると、元禄年間には既に新見から、伯耆の国へ山の中を通る道筋があったことが分かる。 一つは、谷内村→矢谷村→芋原村→(天銀山・三井山の押合峠越え)→三坂村→奥谷峠→伯耆へ。 もう一つは 谷内村→内の山村→足立村→釜村→和忠村→谷田峠→伯耆へ。 この地図の示す谷内から芋原・三坂の径路は現地訪問して確認した古い街道筋と近く、下に掲げる「備中国巡覧絵図」より、正確さでは勝るように思える。 (備中国巡覧大絵図) 天保六年(1835年) 本図は、当時の観光地図のようなもので、正確さには欠けるかもしれないが、山の名称が載っていたりして面白い。 伯耆往来は、谷内(たにうち)から山に入っていくことはほぼ確定。三坂までの径路をたどってみた。 1)矢谷集落の西を通る。 2)芋原集落の西を通る。 3)天銀山(地図では天鬼山))と、三井山(地図では新野山)の間を抜ける。 今の道路より、西側を通っていたことになっている。本当に、今の道と異なるのか、正確な地図のない時代なので違って記載されたのか不明。 備中国巡覧大絵図(部分) 赤点線は、谷内から三坂までの径路を示すための上書き。 (阿哲郡誌) 昭和4〜6年発行。 下巻 第9章 運輸交通 第2節 道路 一、明治以前の交通線 抜書き 下巻 P607 (二)伯耆往来 「 新見市外の北端今の明治町の裏手川岸を通じ、小川端を渡り。高尾・上市をすぎ、谷内より木戸を経て芋原に出で、天銀・三井の二山の鞍部七〇〇米の押合峠を越して三坂に出で、和忠を経谷田峠を越し、石見に至るもの。谷内に於てこの線と分れ、内の草より田曾に出で葦立をすぎ、釜を経て和忠に出づるものとあり。後者は更に困難なりき。」 本図は、幕末近くの状態を示すと思われる。道路は、正確な測量した地図に上書きしているので「備中巡覧大絵図」のような位置関係の大きなずれはない。明朝体活字は、今回追記したもの。 明治以前の交通線図 阿哲郡誌 下巻 P606 (08.5.3) |