伯耆往来(その3)

高梁市史、備中町史より抜書き。
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(高梁市史)

高梁市史 第6章 藩政を謳歌した水谷三代 第一節 交通と商業
P248〜253

伯耆往来 出雲・伯耆の山陰地方と、山陽地方を結ぶいわゆる陰陽連絡の道路は・・・・出雲街道と、・・・因幡街道があったが、それとは別に、陰陽連絡の最短路として、険阻ではあったが、伯耆の日野川渓谷と、松山川の西川渓谷と県境の谷田峠(たんだたわ)を結ぶ伯耆往来があった。石見から谷田峠を越し、和忠・三坂を経て天銀・三井二山の鞍部七〇〇メートルの押合峠を越して芋原に出、木戸・谷内をすぎ、上市・高尾を経て新見に入るものであり、別に和忠から釜を経て足立に出、田曾から内の草に出、谷内で前者に合流する側線もあったが、いずれにしても山越えの困難な道であった。
 今一つは、上市から坂本を経て千屋市場に至り、成地、花見を経て、明地(あけち)峠を越えて根雨(ねう)に出るもの、花見から茗荷(みょうが)峠を越えて黒坂に出るものもあったが、共に険阻な道であった。
 新見からは主として松山川の舟運を利用したが、寛政七年(1795年)六月八日、新見の船問屋から乗船した旅客が、広石で難破し、多数の溺死者を出した。・・・・・溺死者の出身に、出雲や塩飽島の住人があることは、これらの往来が陰陽連絡路線として盛んに利用されていた証拠であろう。」


江戸時代の道 高梁市史 P250 
「正保四年(1647年)に調査した池田家文庫の「備中国道筋、灘道、舟運帳」
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「備中国地図」(元禄元年(1688年)頃)に、備中から伯耆へ抜ける道、峠の記述がある。当該地域のものを西の方から拾い出した。
1)谷田峠:伯耆国日野郡上岩見村へ(上の地図の谷田峠、現在の釜村から上石見へ抜ける道:)
2)奥谷峠:伯耆国日野郡門神村へ(現在の奥谷から神戸上へ抜ける道)
3)鍬平峠:伯耆国日野郡門神村へ(桑平峠、現在の成地から神戸上へ抜ける道)
4)栗峠 :伯耆国日野郡花口村へ(現在の千屋いぶきの里から花口へ抜ける道)
5)蓑荷峠:伯耆国日野郡黒坂へ(上の地図に記載あり:茗荷峠:現在の千屋いぶきの里から黒坂へ抜ける道)
6)明知峠:伯耆国日野郡脇門村へ(上の地図の明地峠:現在の千屋花見から根雨に抜ける道。昔は勿論トンネルなく剣山の東側を越えていた)
(TKN記)
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水谷時代領地図  高梁市史 P248
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水谷時代(1640〜1695年)は、盛んに鉄山開発が行われた。瀬戸内沿岸の玉島も水谷氏領地であったから、鉄ほかの積出港として玉島の港湾整備に力を注いだ。鉄は、県北の製鉄地帯→新見→松山→玉島港→大阪へと運ばれた。
(TKN記)
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(備中町史)
備中町史 第4章 近世 四 経済構造 四 工鉱業 (2)鉄の流通




備中町史( P209)より 
「芳賀最一郎(明治23年生)は、明治38年ごろから大正10年ごろまで農閑余業として馬子を行った。輸送範囲は東城−吹屋間で、吹屋−成羽間は馬車で輸送されたので吹屋まで輸送すればよかった。東城から荷を積んで1日で藪にいたり、家に帰って一泊し翌日吹屋まで一日がかりで輸送した。東城−吹屋間の一駄の運賃は50銭であった。東城と松山には月3回の牛市が立ったので、博喰が牛を追って往来することも多く、中継にあたる薮には茶店二軒が繁盛し、茶店には牛の泊まる小屋も常備してあった。輸送物資には東城方面の酒・米・鉄が主要なもので、鉄は一駄(TKN注:約100kg)単位で運ぶが、馬の背の痛みが大きく馬子は他の物資の方を好んだ。鉄荷輸送がなくなったのは、明治末−大正初めのころであった。毎日100頭ばかりの駄馬が輸送にあたった。」

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備中北部の鉄は、新見へ集められ新見から舟で玉島まで運ばれた。また、備後国の鉄は東城から、吹屋、成羽へ集められ同じく舟で玉島へ運ばれ、玉島から大阪へ運ばれた。伯耆国の鉄も、備中へ運ばれたように書かれているが、伯耆国の鉄は日本海側から積み出したため、国を越えて人・生活物資の往来はあったが鉄が国を越えることはなかったとの話もある。(TKN記)
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(08.5.14)




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