伯耆往来(その4) 伯耆往来は、鎌倉時代から戦国時代はどうだったか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− (新見庄畠取帳に見る鎌倉時代の様子) 「備中国新見御庄 文永八年辛未領家御方正検畠取帳」(鎌倉末期から戦国時代の東寺百合文書) 文永八年(1271年)、新見庄の領地を「下地中分」するために田畑の検地を行った。現在の谷内から、吉川にいたる道筋沿いの地名、田畑の様子が分る。新見庄ではそれまで、田畑が盛んに開墾されてきた。 棚田 (数年前から作られていない。) 芋原は、吉河里の一部であったようだ。今の所に集落があったかどうかははっきりしない。 芋原を通り、上市へ抜ける山道は 中世より、京都との人の往来、年貢などの物資を運んだ道であった。芋原集落がその頃にあったかどうかは不明。西吉川、東吉川、フシヤ谷は地名としてあるが芋原集落を示す地名はない。 芋原地名は、時代が下って「備中国絵図」(元禄元年頃(1688年頃))に、見ることが出来る。この頃になると、吉川村、芋原村・・となっているので、独立した集落とみなされるようになったのだろう。往来筋の宿場として発展したのか、たたら製鉄の集落として発展したのかは不明。 新見庄は平安末期に成立して以来田畑が開墾され米その他の作物が作られると同時に、鉄、漆、蝋、紙などの特産物が作られた。いわゆる「伯耆往来」はこれらを、上市、さらには京都へ運ぶ道であった。 「備中国新見御庄 文永八年辛未領家御方正検畠取帳」に見る地名 位置は、「新見市史(新見市史編纂委員会編):付図1 文永八年二月備中国 新見庄名分布 その1」に従った。 (数字は、各地の標高を示している。) −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− (08.5.20)(08.6.20) |