鍛冶屋谷たたら遺跡(08.1.31訪問)
岡山県鏡野町 富西谷

(パンフレット 説明)
 村の北西部、村境界に近い標高750mの山中にたたら(熔鉱炉)跡をはじめ、金池、元小屋、作業場、山内小屋、金屋子神社、稲荷神社及び従業者の墓地など一連の山内施設(たたら師の村)の跡が良好な状態で保存されています。
 ここは津山藩営鉄山であった大倉山鉄山のうちの一つで、1851(嘉永4)年以降大庭郡上徳山村(現真庭郡川上村)の徳山集蔵が総支配人となって経営にあたっていたこともあります。明治維新後も稼業をつづけ、1887(明治20)年ごろ廃業したと伝えられています。

(鍛冶屋谷たたら遺跡に関する記述)
富村史 第四節 製鉄と木地師 
一、富村と製鉄業

「富西谷村の内でも大倉地区には製鉄の跡は見られない。しかし、大倉以北大空山から上杉、霰ヶ山に至る北部地帯全般は「大倉山」と総称され、砂鉄採集、製鉄の跡が無数に残っており製鉄地帯であったことが分かる。」 P333

「大倉山鉄山の人的構成を研究した庄司久孝氏は。「たたらによる中国山地開拓」という論文を記されているが、それによると大倉山鉄山には一時、三、四百人の人々が集落を形成していたと述べている。古老の伝えるところでは四郎兵衛谷の集落で芝居を度々興行して、余川以北の部落はもとより遠く真庭郡中和村木地屋敷、一ノ茅方面からも多くの人々が上杉乢越しに見物に集まり、四郎兵衛谷は不夜城の観を呈していたとのことである。また金屋子神の祭礼には、晴着姿の参詣人で大賑いを呈していたとも伝えられている。」P337

「村に残る高殿式溶鉱炉の跡地について富西谷字鍛冶屋谷と中の谷の合流地に、多くの石囲いの区画が残されている。この中で何に使用されたものかある程度判明しているのは、溶鉱炉跡、社祭祀壇跡、金屋子神祭祀貴台跡、屋敷跡、鉄滓捨場跡である。」P337

「フグルミ谷と井手谷の山麓に「ノトロ原」の原野がある。原野は十町歩近く、ゆるやかな傾斜地で採草地であったが現在は植林地とキャンプ場が設置されている。原野の上端に三段階の耕地跡を見ることができる。このゆるやかな原野は「フグルミ谷」と「中の谷」の山腹に水路を設け、土砂を井手谷に掘り流し砂鉄を取り、その土砂の堆積によって原野が形成されたものである。」 P338
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(鍛冶屋谷たたら遺跡)

  
鍛冶屋谷たたら遺跡入り口(左写真)  たたら遺跡案内図 図中の左に屋敷跡、右に溶鉱炉跡、鉄滓捨場跡(右写真)

  
金屋子神(復元)(左写真)         溶鉱炉跡(奥側)と、金池(手前側)(右写真)   



キャンプ場となった「ノトロ原」の原野
さらに行くと富栄山、大空山登山口


井手谷下流に広がる広い田  美ノ茅地区
正面黒い屋根の家の奥が井手谷
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(現地での聞き取り)
土地の方にお話を伺った。
1)フグルミ谷と四郎兵衛谷とは、同じ。
2)中ノ谷 はどこだか分からない。
3)このあたりでの、カンナ流しの井手は知らない。
4)四郎兵衛谷の下に、昔からの田が、数枚ある。また、古いお墓もある。(雪で確認に行けなかった。)
5)古小屋、新小屋、細小屋は 下流にある地名。

(08.2.4)




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