日本/歴史・・朝鮮侵略/壬辰倭乱2
2011年08月16日
朝鮮侵略/壬辰倭乱12
秀吉はなぜ朝鮮侵略を行ったか。

日韓共通歴史教材が相次いで、発行されている。下の3冊がそれで、日本と韓国の、教師あるいは研究者が協力して作成したものである。秀吉の朝鮮侵略の原因をどう記述しているか調べてみた。


左から、「日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史 先史から現代まで」、
「日韓共通歴史教材 朝鮮通信使 豊臣秀吉の朝鮮侵略から友好へ」、
「向かいあう 日本と韓国・朝鮮の歴史 前近代編 上、下」
(表紙の一部を、図書館ラベルを消すため画像処理している)

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(日韓共通歴史教材に見る朝鮮侵略の原因)
A)「日韓共通歴史教材 朝鮮通信使 豊臣秀吉の朝鮮侵略から友好へ」
  日韓共通歴史教材政策チーム 編 

  A1)自身の征服者としての野心を満たすため
  A2)武士たちに新しい領地を与えることによって、
     彼らの不満をそらすため(豊臣氏の支配権強化)

B)「向かいあう 日本と韓国・朝鮮の歴史 前近代編 上、下」
  歴史教育協議会(日本)・全国歴史教師の会(韓国)=編

  B1)東アジア全域にまで勢力を広めようと考えるようになった
  B2)さらなる領地の拡大を願う家臣たちの期待に応えるため

C)「日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史 先史から現代まで」
  歴史教育研究会(日本)・
  歴史教科書研究会(韓国) 編

  C1)軍役に動員することで権力を集中するため
     (政権の安定と経済的な利益の追求)
  C2)新しい領土を獲得するため(同上)
  C3)貿易を掌握して経済的な利益を得るため(同上)
  C4)明中心の国際秩序の変化に乗じて、東北アジアを征服しようとした。
     (日本型華夷秩序の確立)

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(朝鮮侵略の原因のまとめ)
以上をまとめると
  あ)秀吉の征服欲、野心(日本型華夷秩序の確立)   A1、B1、C4
  い)新しい領地の獲得(豊臣政権の支配権強化)    A2,B2、C2
  う)戦時体制継続で権力集中(同上)            C1
  え)貿易利益の獲得(経済的な利益の追求)       C3

さらにまとめると、秀吉が、侵略戦争を行った原因は次の3つ。
 (1)新しい領地の獲得、戦時体制継続による権力の集中で
    豊臣政権の安定化を図ろうとした。
 (2)貿易利益を獲得し、経済的な利益を追求しようとした。
 (3)明中心の国際秩序の変化に乗じて、東北アジアを征服し
    日本型華夷秩序の確立しようとした。

もっと大きくまとめると、「豊臣政権の安定化」である。
(3)も、結局は、豊臣政権の安定、継続のためである。

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(私の考えた朝鮮侵略の原因)
私が侵略の原因として「朝鮮侵略/壬辰倭乱8」であげたもの。
『秀吉は、全国平定後、「戦時体制」から「平時体制」への移行のためのビジョンを持ってなかったために、巨大で強固な「戦時体制」の自律的な動きに従わざるを得ず、「新たな戦時」=征明(朝鮮侵略)へと突き進んだ。』

手前味噌だが、「豊臣政権の安定化」、「経済的な利益追求」、「日本型華夷秩序の確立」といった3つの原因よりも、私のあげた「戦時体制の自律的な動きに従わざるを得なかった」を朝鮮侵略の原因であると考えるほうが、より歴史の流れの本質に迫った見方だと思う。(・・・両者は階層になっていて、対立するものでもなさそうだが、自分の考えたもののほうが、「より本質的」「より根源的」だとここは固執する!)

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(「新たな戦時」=征明(朝鮮侵略)、は短絡的)
ただ、『「新たな戦時」=征明(朝鮮侵略)へと突き進んだ』というところは、「新たな戦時」はいいとしても、それが「征明(朝鮮侵略)」になったというところには、飛躍がある。なぜ、征明なのか、なぜ朝鮮侵略なのか。

なぜ、朝鮮を周辺国、あるいは慰撫されるべき国としてみていたのか。総撫事(天下平定)の考え方を、朝鮮半島にまで簡単に広げてしまう当時の感覚は何だったのだろうか。秀吉を含む当時人々の認識、感覚を知る必要がある。当時の「神国思想」、「日本の中華思想」がキーワードなのだろうか。もっと、調べてからでないと「新たな戦時」=征明(朝鮮侵略)、と簡単に結び付けてはいけない。今後の課題。

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(歴史認識と国際理解 という課題)
「政権の安定のためであったとする見方は、韓国の詳しく書かれている第6次高校国史教科書での叙述にもとづくもので、豊臣秀吉による日本型華夷秩序の確立のためであったとする見方は、日本側の研究成果を反映したものである。」(「日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史 先史から現代まで」より深く理解するために)について。

韓国側教師が、朝鮮侵略の原因を日本の国内情勢に強く求めているのに対し、日本側教師は、それを日本情勢を含んだ東アジア情勢に由来するものに求めている。韓国側教師は、自国への侵略の動機を侵略側に「一方的に」求めているのに対し、日本側教師は、自国内にあるかもしれない侵略動機、それを「高いレベルに昇華」させる東アジア情勢に求めているように見える。歴史認識と国際理解のハードルの高さを見る思いがした。

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(日韓共通歴史教材 抜粋)(下線は私)

A)
「日韓共通歴史教材 朝鮮通信使 豊臣秀吉の朝鮮侵略から友好へ」
日韓共通歴史教材政策チーム 編 (明石書店 2005年発行))
日韓共通歴史教材政策チーム=広島県教職員組合(日本)・全国教職員組合大邱支部

P18
第1章 秀吉の朝鮮侵略
1 豊臣秀吉が朝鮮を侵略
 秀吉の野望 16世紀、日本の戦国時代の混乱は、織田信長そして豊臣秀吉によって平定され、国内の統一がなされました。新しい支配者となった秀吉は、さらに朝鮮と明を征服しようとしました。それは自身の征服者としての野心を満たし、武士たちに新しい領地を与えることによって、彼らの不満をそらし、豊臣氏の支配権をさらに強めようと考えたからです。

P27,28
2 秀吉の朝鮮侵略に反対した人々
 侵略に対する思い 秀吉を支えていた大大名の徳川家康と前田利家は、軍隊派遣を取りやめるよう進言しましたが、秀吉は「天下人は国を富み栄えさせなければならない」と二人の進言を突っぱね、自分の征服的野心を実行に移しました。

 秀吉の母なかは罪なき人々を殺す朝鮮への侵略戦争(唐入りといった)を思いとどまらせようと、おりにふれ、秀吉に意見をしていました。

 秀吉の弟の秀長は病を患っていましたが、秀吉の朝鮮出兵の計画を知って「国内を統一した今こそ内政を充実させることが一番大事である。いたずらに外国と争い、人馬、兵糧を費やすのは暴挙である。和議を講じて交易を広めるのが富国の道である。戦功をあげた将兵に与える禄が足りないというのなら、自分の領地を削って与えよ」と諌めました。しかし、秀長は1592年1月、病死しました。

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B)
「向かいあう 日本と韓国・朝鮮の歴史 前近代編 下」
歴史教育協議会(日本)・全国歴史教師の会(韓国)=編 (青木書店 2006年発行)

P97,98
26 豊臣秀吉の朝鮮侵略
秀吉の朝鮮侵略構想

 室町幕府の力が衰え、15世紀半ばから約100年間各地の大名がそれぞれ独立して領土拡大を競って互いに戦いあう時代が続いていた。そのなかで、他の大名との相次ぐ戦いに勝ちぬいて強大な勢力を築いたのが織田信長であった。豊臣秀吉は信長の家臣として各地の戦争で手がらを立て、信長の死後は敵対する諸大名を次々に征服して1590年に国内の統一を果たした。
 
 当時の東アジアは明の弱体化やヨーロッパ勢力の進出によって国際関係が大きく変化しつつあった。秀吉はこうした流れを目の当たりにして、強力な軍事力によって国内のみならず東アジア全域にまで勢力を広めようと考えるようになった。また、秀吉の家臣たちは戦功に応じて領地を与えられて一族の繁栄を築いてきたので、秀吉はさらなる領地の拡大を願う家臣たちの期待に応えるためもあって海外征服にのりだすことになった。

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C)
「日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史 先史から現代まで」
歴史教育研究会(日本)・
歴史教科書研究会(韓国) 編 (明石書店 2007年発行)

P129、130
第7章 16世紀末の日本の朝鮮侵略とその影響

1.戦争の経過と朝鮮の対応
 「豊臣秀吉は権力の安定と経済的な利益のために、東北アジア国際秩序の再編をめざして朝鮮を侵略した。朝鮮は日本軍の侵略を受け、初めは苦戦したが、義兵と水軍が勝利し、さらに明の援軍の力を借りて情勢を逆転させた。この後、和議交渉がもたれたが決裂し、ふたたび始まった戦闘では義兵と力を合わせた朝鮮軍と明軍に日本軍は苦戦し、7年もの長い戦いの末に朝鮮から撤収することで戦争が終わった。」

戦争の背景と原因
 16世紀に入って東北アジア情勢が変化した。東北アジアの中心勢力だった明の国力が弱くなり、東シナ海を中心とする地域での倭寇の活動が活発になると同時に密貿易も盛んになった。北方では女真族(後の満州族)がふたたび勢力を増した。朝鮮は長い間平和な時期を保っていたので侵略に対する意識が緩んでいた。

 豊臣秀吉は1590年、日本を統一して新しい国家秩序を確立する一方、朝鮮を侵略した。豊臣政権は、侵略戦争によって大名を軍役に動員することで権力を集中する一方、戦いに勝利して新しい領土を獲得するとともに、貿易を掌握して経済的な利益を得ることを期待した。豊臣秀吉は軍事力を背景に、明中心の国際秩序の変化に乗じて、東北アジアを征服しようという構想も抱いていた。

豊臣秀吉の東北アジア征服構想ーーーーーーーーーーー(囲み記事)
 1591年朝鮮王に送った国書で、秀吉は「直ちに明に入って、中国を日本の風俗に換えておき・・・・・貴国が入朝したならば、心配事がなくなること・・・・私が願うことは、ただ自分の美しい名前を三つの国にとどろかせること」とし、戦争の序盤で日本軍が勝利すると「天皇を北京に迎え、自分は寧波に住んでインド征服に着手」するというアジア占領計画を明らかにした。1593年には、インド・ゴアのポルトガル総督府、フィリピン・マニラのイスパニア総督、台湾・高山国に服属と入貢を要求した。
 しかし、豊臣秀吉のこのような構想は征服しようとした国に対する認識が浅く、現実味に乏しかった。
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P374
より深く理解するために
 学習の教材かにあたっては、次のような点に留意していただきたい。
 第1に、戦争の原因について。戦争の原因としては、@豊臣秀吉政権の安定と経済的な利益の追求、A豊臣秀吉が東北アジアの国際秩序を再編し、日本型華夷秩序を確立しようとしたこと、の2点を併記した。具体的には、豊臣秀吉の英雄心と功名心、対明貿易の拡大、封建領主の勢力を弱化させるため、また九州の大名が海外での領土拡大を試みたため、などに触れたが、全体として名分のない戦争挑発と考えられることを記述した。政権の安定のためであったとする見方は、韓国の詳しく書かれている第6次高校国史教科書での叙述にもとづくもので、豊臣秀吉による日本型華夷秩序の確立のためであったとする見方は、日本側の研究成果を反映したものである。
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(付録 歴史認識と歴史教育についてためになる本)
1)「歴史認識共有の地平 独仏共通教科書と日中韓の試み」
   剣持久木、小菅信子、リオネル・バビッチ 編著
  (明石書店 2009年発行)

2)「東アジアの歴史政策 日中韓 対話と歴史認識」
   近藤孝弘 編著
  (明石書店 2008年発行)

3)「増補版 韓国と日本 歴史教育の思想」
   鄭在貞 著
  (すずさわ書店 2005年発行)
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posted by tamatama at 09:41|   朝鮮侵略/壬辰倭乱 2011年07月22日
朝鮮侵略/壬辰倭乱11
なぜ、秀吉は朝鮮侵略を考えるようになったか。
(日本,韓国の学者の見解をみてみた)

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A)まず、日本の学者の見解

「文禄・慶長の役(壬辰倭乱)」六反田豊/田代和生・吉田光男・伊藤幸司・橋本雄・米谷均・北島万次
日韓歴史共同研究委員会 第1期(2002-2005年) 報告書 
(http://www.jkcf.or.jp/history/first/2/1_1_2roku_j.pdf)から、引用・まとめ
・・・・以下まとめ

1)鈴木良一氏の説を踏まえ、それを補強した考え(1952年〜)
鈴木良一氏は、@中世の土一揆以来の民衆のエネルギーをはぐらかそうとする日本の領主階級の狙い、Aヨーロッパ商業資本(ポルトガル、オランダなどの西欧勢力)に対する豪商の意向、があり、領主と豪商の期待にこたえるため秀吉は専制化を進めて「民族的抵抗」の問題にすりかえて、明からの独立を宣言し、その延長の一つが戦争になっていったという考えを発表した。(1952年)

@は、豊臣政権には、絶え間ない知行拡張の動きがあり、そしてそれに起因する政権内部矛盾を解消する目的で大陸侵攻の意図が最初からあった、とする考え方で補強された。豊臣政権にとっては、朝鮮侵略は全国統一の延長にあるものとの考え方である。

Aは、後期倭寇がポルトガルの進出が明の冊封体制を弛緩させ、明の冊封下にあった中世国家が崩壊し、戦国動乱を統一してその中世国家を止揚した豊臣政権が明帝国からの自立を志向し、さらに東アジアの征服を目指したとする考え方へと展開された。

2)藤木久志氏の考え(1985年)
国内内部矛盾の解消プロセスは「戦争」だけでなく、「私闘の停止、あるいは平和の創出」と捉えなおした。秀吉の統一の基調は、@軍事的征服だけでなく、A惣無事令(大名間などにおける私的闘争の禁止)、刀狩、海賊停止令などのいわゆる「豊臣平和令」に見られる平和の創出であるとした。

豊臣政権は、日明間では勘合貿易復活を基調とし、朝鮮に対する征伐は、日本に対する服属拒否への行動の表れであるとした。

3)米谷均氏らの発見(1995〜2002年)
@16世紀段階の対馬による通信使派遣体制を明らかにし、戦国時代から織豊政権の統一過程に関する情報が朝鮮に向け意図的に隠蔽されていたことを解明した。そのため、朝鮮王朝側が、豊臣秀吉の存在を侵略直前まで知りえなかったこと、それゆえ、よもや日本軍が朝鮮を侵略してこようとは予想もできなかったことが判明した。

東アジア海域の「倭寇的状況」に関し、豊臣政権の海賊停止令の実現があって朝鮮王朝(宣祖朝)側が、秀吉が内外の平和を掌握したものと誤解し、これがやがて戦争に直結する1590年通信使の日本派遣につながったと指摘した。
・・・・まとめ終わり
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B)上のなかで、私がもっともだと思ったのは、1)鈴木良一氏の考えの@内部的な要因を発展させた部分である。上の下線部。ここでいう、「絶え間ない知行拡張の動きに起因する政権内部矛盾」とは、民衆の自立化要求と搾取する側の領主階級の対立、専制化を進める秀吉となお自立化をめざし服属に抵抗する領主階級の対立、がその内容といえよう。2)の藤木久志氏が述べる、豊臣政権の「豊臣平和令」による「平和の創出」志向は、「豊臣政権の長期繁栄と安泰」志向の前には、影が薄い考えではないかと思う。秀吉が、もっと真剣に「日本国内の民の平和と長期繁栄」を考えていたら、同じような法令でも中身がもっと違った運用がされ、朝鮮への軍事的行動などということにはならなかったと思う。

朝鮮侵略の原因について、日本の国内にあった内部矛盾についてもう少し知らなくてはいけないと思い、「日本民衆の歴史B 天下統一と民衆」佐々木潤之介編 三省堂 を読んだ。

第一章 戦国大名と百姓、第二章 一向一揆、第三章 荘園農民と町衆、第四章 朝鮮出兵と民衆、第五章 島原の乱。このうち、第四章 朝鮮出兵と民衆 は、おもに検地が朝鮮侵略に果たした役割を示し、検地と朝鮮出兵が一体として進められ農村の民衆に過酷な状況を迫ったことを生々しく描いている。(下の太閤検地 検地した国数参照)(島津義弘の軍役(1596年12月)参照)第五章 島原の乱は、東アジアの交易のなかで日本を含めた各国がその利をもとめてさまざまに活動した姿を描き、やがて鎖国への道を選んだ経緯を明らかにしている。秀吉は貿易利潤の独占を目指していたと述べている。
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太閤検地
       検地した国数
1582(天正10)■■■3       本能寺の変
  83(   11)■■■■4      賤が岳の合戦
  84(   12)■■■■■■■7     小牧・長久手の合戦 
  85(   13)■■■■■5      四国征伐・朝鮮出兵の計画
  86(   14)■■2       大仏殿(方広寺)の造営と発令
  87(   15)■■■■■■6     九州征伐・聚楽第完成
  88(   16)■■■■■■■■8    刀狩令を発する
  89(   17)■■■■■■■■■■■■■■■15 征東の動員令
  90(   18)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■19 小田原征伐・天下統一
  91(   19)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■20 九戸の乱(奥州出兵)
  92(文禄 1)■■■■■■■■■■10     文禄の役
  93(    2) ■■■■■■■■■9     
  94(    3) ■■■■■■■■■■■■■■■15 伏見普請
  95(    4) ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■20 秀次事件
  96(慶長 1)■■■■■■■■8 
  97(    2) ■■■■■5        慶長の役
  98(    3) ■■■■■■■■■■10    秀吉死去 

出典:「新訂 日本史図表」第一学習社 昭和53年 、
   「日本民衆の歴史B 天下統一と民衆」佐々木潤之介編 三省堂

〇検地は、「文禄の役」、「慶長の役」の数年前から強化されており、秀吉の朝鮮侵略の準備のためになされた。検地では、土地の石高の評価と、その土地の作り手が確定され、家族が明記された。これは、百姓の身分確定と土地への縛りつけを意味した。この人別長はやがて、軍役の徴兵台帳ともなった。
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島津義弘の軍役(1596年12月)
       軍役(人)百分比(%)
馬  乗      262    2
徒歩小侍     300    2
無 足 衆       500   4
御道具衆      665   5
ーーーーーーーーーーーーーーー
人  数      5,068   40
ーーーーーーーーーーーーーーー
夫  丸     3,900   31
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加  子     2,000    16
ーーーーーーーーーーーーーーー
(計)      12,695    100

出典:「日本民衆の歴史B 天下統一と民衆」
    佐々木潤之介編 三省堂

〇これは、慶長の役の際の島津軍の動員数である。このなかで戦いに参加するのは、侍といってよい13%と、これに従う40%の人々であり、夫丸、加子の47%は運搬などの労役に従事する百姓から徴兵されたものであった。

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C)次に、韓国の学者の見解(まとめとして書かれている見解)

「韓国と日本学界の壬辰倭乱原因論について」李啓煌
 日韓歴史共同研究委員会 第2期(2007-2010年) 報告書 
(http://www.jkcf.or.jp/history/second/2-06j.pdf)より、引用・まとめ

・・・以下引用
(秀吉の統一戦略:大名の軍事力と在地支配力強化となった)
「周知のように、秀吉は北条氏を除外すれば外交を通じて諸地域の大名を服属させて、自身に服属を約束する限り領国の支配を認めた。そのようにして、非常に短期間に全国を統一することができた。しかしこの統一戦略は、大名の軍事力と在地支配力を強化する結果をもたらした。」

(秀吉の政権構造:大名連合的性格で統制する制度的装置が未整備)
「この時期の秀吉政権は、国家化を目指す中央集権であることには間違いないが、政権構造は大名連合的性格を持っている。すなわち、当時の秀吉政権は、総じて大名たちよりは優越した領地と軍事力を確保していたが、有力大名たちを圧倒する程の領地と軍事力を確保することはできなかった。また、全国の大名たちを統制する制度的装置も完璧に備えてはいなかった。」

(戦国大名の課題と解消:支配と被支配の関係の矛盾解消、支配層相互間の対立解消、下克上の風潮制御)
「戦国大名が解決しなければならなかった課題は、支配と被支配の関係において発生する基本的な矛盾の解消、支配層相互間の対立の解消、下克上の風潮などを制御することであったとみることができる。このような状況で、戦国大名たちは農民問題を解決することと同時に、麾下領主たちの在地支配権を弱体化させるために検地を実施して、外部との緊張関係を造成し、軍事力を結集させようとしたのである。」

(秀吉政権の課題と戦国大名の課題:同じ)
「秀吉政権が全国を統一した段階でも、それは同じである。壬辰倭乱を通じて、いわゆる太閤検地を強制し、朝鮮侵略を口実に全国の軍事力を集中させた。名護屋城に東国地域の大名の軍事力を集中させる構造を維持していたという点に注意しなければならないだろう。」

(朝鮮侵略の原因:外部緊張関係は不可欠であったことの帰結)
「このようにみれば、秀吉政権は圧倒的優位の領地と軍事力の未確保、大名たちを統制する制度の不在などにより、外部に対する緊張関係が必要であり、それによって朝鮮を侵略したと見られる。」
・・・引用終わり。()のタイトルは私がつけたもの。

以上の各節をまとめると以下のようになる。
@(秀吉の統一戦略:大名の軍事力と在地支配力強化となった)
A(秀吉の政権構造:大名連合的性格で統制する制度的装置が未整備)
B(戦国大名の課題と解消:支配と被支配の関係の矛盾解消、支配層相互間の対立解消、下克上の風潮制御)
C(秀吉政権の課題と戦国大名の課題:両者は同じ)
D(朝鮮侵略の原因:外部緊張関係は不可欠であったことの帰結)

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D)自分の言葉で、これをまとめると以下のようになる。

「中世、応仁の乱が終わり幕府支配が緩んだなかから生まれた中小領主の一部は荘園領主からその権益を奪い、そして守護大名を打ち倒して戦国大名となったが、いまだ自国領地の支配を確固としたものにはできていなかった。領地で検地をてこに農村の直接支配を図ろうとしたが、農民は集団で支配者の徴税を跳ねのけようとしていたし、また農村のなかでさらに階層分化が進み、そのなかから力を持ったものは大名の家臣とならず、みずから自立化の道を歩もうとしているものもあった。下克上の風潮は少しづつなくなってきてはいたが、家臣団の内情は、さまざまな出自のものの集まりで、主従関係を強く意識した強固な家臣団を作りあげるまでには至っておらず、かろうじて一族郎党を基本にして結びついているにすぎず、その家臣団をまとめていくことも戦国大名の腐心するところであった。

信長の平定の成果を引き継いだ秀吉は、服属する大名の領国支配を認めることで短期間に奥州から九州までの平定を成し遂げだが、その結果彼らの軍事力と経済力をそぐことができず、豊臣政権は相対的には大大名であったが、基本的な政権構造は大名連合的性格であった。そのため、その支配は不安定で、早期に全国の大名たちを統率する制度を整える必要があった。しかし、今の豊臣政権はそれを成すにはまだ力が足りなかった。

秀吉は、全国平定を成し遂げたとはいえ、その実態は六十余州にまたがる大戦国大名にすぎず、領国支配の強化、服属する大名たちの統率強化と安定化が大きな課題であった。圧倒的優位の領地確保と軍事力確保がいまだできておらず、大名たちを統制する制度もいまだ未整備であった豊臣政権が、さらにこの後も政権内の内部矛盾を克服していくには、これまでどおり新たな戦時による緊張の持続しか道はなかった。六十余州の外にある敵、それは朝鮮、明であった。」

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E)この内容は、朝鮮侵略の原因として、先に私があげた、
『秀吉は、全国平定後、「戦時体制」から「平時体制」への移行のためのビジョンを持ってなかったために、巨大で強固な「戦時体制」の自律的な動きに従わざる得ず、「新たな戦時」=征明(朝鮮侵略)へと突き進んだ。』に比較的近い。

「巨大で強固な「戦時体制」の自律的な動きに従わざるを得ず、『新たな戦時』征明(朝鮮侵略)へと突き進んだ。」≒「政権内の内部矛盾を克服するにはこれまでどおり新たな戦時による緊張の持続しか道はなかった。」ということである。

ここでは、侵略の要因として、豊臣政権内部の問題のみ取り上げられている。私も、豪商の海外貿易への圧力、秀吉の対外貿易確保による財政基盤確立への欲求、明衰退に伴う東アジア覇権への野望などより、豊臣政権内部に関わる要因が最も大きな要因であったと思う。
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posted by tamatama at 21:05|   朝鮮侵略/壬辰倭乱 2011年07月16日
朝鮮侵略/壬辰倭乱10
なぜ、秀吉は朝鮮侵略を考えるようになったか
(韓国の出版物を見てみた)

韓国では、秀吉は朝鮮侵略の原因をどのように考えているかを知りたいと思い、図書館で本を探した。

「朝鮮王朝実録」 朴永圭 著
新聞記者だった著者が在職中に資料を集め、記者を辞して、朝鮮王朝26代の王の業績を当時の政治状況を踏まえながら記したものである。

「若者に伝えたい 韓国の歴史 共同の歴史認識に向けて」李元淳、鄭在貞、徐毅植著 
1996年、「日韓教科書問題懇話会」という名前ではじまった日韓両国のカトリック司教交流会の成果である。第1部が、「韓国の歴史と文化」、第2部が「韓国と日本の文化交流」となっている。

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壬辰倭乱に関連する部分を抜き出してみた。

(壬辰倭乱の原因について)
「朝鮮王朝実録」
A1)統一を成した豊臣秀吉は、諸侯勢力を危険な存在と見なし、そのため外部との戦争を通じて彼らの力を縮小させようとした
A2)戦国時代で獲得した戦術的能力を外部に向けさせて、民心を一つに束ねようとした
A3)産業都市を基盤にして大きくなってきた新興勢力の力を外に向け、国民を一つに団結させようとした

「若者に伝えたい 韓国の歴史 共同の歴史認識に向けて」
B1)国内的には彼に反対する勢力の軍事力を弱化させ政権の安定を図ろうという政治的意図
B2)対外的には東アジアを支配しようとする野望

(原因のまとめ)
A1)、B1)は、豊臣政権の基盤強化のために、反対勢力の弱化を意図したもの、・・・(い)
A2)、A3)は、外部との戦争により、目を外に向けさせ、国内の一致団結を狙ったもの、・・・(ろ)
B2)は、東アジアを支配しようとする野望・・・(は)

にまとめられる。A3)のほかは、これまで言われてきたことだ。A3)は、産業都市の新興勢力=商人に注目した話だが、堺は秀吉の直轄領となり、博多も重視しており、対立するものではなく、違うように思う。(秀吉を財政的に支えていいた堺、博多商人の海外交易での影響力は、ポルトガル商人の進出で失われそうになっていた。彼らの海外交易継続・拡大の意欲が秀吉の対外進出の決定に反映したという話がある。7/18追記)

(原因のまとめの考察)
(い)について。出兵動員は全国の大名にかかっており、軍役も100石あたり5人を基本として整然と決められている(天正20年 陣立書「天正記」)。出兵、戦争の結果として出陣した大名の力が弱まったことは間違いないが、当初から意図したものではないように思う。出陣した大名には、小早川秀秋、宇喜多秀家、加藤清正、福島正則など秀吉親族、子飼いの大名も多数参加している。家康など、東国の大名は名護屋城へ後詰として参陣している。当初、朝鮮へ渡海しなかったのは小田原攻めに際し、東国大名への負担が極めて重かったからだとの話もある(天正17年 小田原陣立書)。

(ろ)について。天下平定直後であり、いまだ各大名は豊臣政権に服してはいるが力のバランスが崩れると、敵対勢力になる可能性はあっただろう。特に、島津、毛利など。彼らを、対外戦争に向けさせることで、その可能性を低くしようということは、秀吉も思ったかもしれない。

(は)について。東アジア支配の野望はあった。秀吉は、天下統一の延長で、東アジアへの支配権拡張を目ろんでいた。その動機は、豊臣政権の基盤強化(国内大名の服属強化と治安安定、豊臣政権の財政力強化)であっただろう。上昇傾向にある秀吉が、みずからの基盤強化をこれまで成功してきた戦時体制を活用した方法を踏襲し対外侵略に向けたことは当然であった。

秀吉の朝鮮侵略動機について、韓国の出版物でもこれまで言われてきたものと大きく変わることはなかった。

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「朝鮮王朝実録」 朴永圭 著、伊淑姫 神田聡 訳 
(新潮社 1997年 出版 、原著は1996年韓国で出版)

第十四代 宣祖実録
P183〜184
一、文治主義者・宣祖の即位と朋党政治時代の到来

 宣祖は、壬辰倭乱を防げなかったという理由で柔弱で優柔不断な王と言われている。しかし、彼は明宗時代の難局を収拾し、外戚政治をなくし、臣権中心の政治を具現化した優れた王だった。

 明宗時代まで謀反に次ぐ行為とみなされていた朋党政治を、宣祖は、政治的理念として積極的に受け入れ、より発展的な党派政治へと導こうとした。しかし、当時の状況はこうした朋党政治が過渡的な様相を帯びていたために、多分に混乱を生じさせ、それに壬辰倭乱が重なって、彼の意図は失敗に終わってしまった。しかし、宣祖が構想していた党派中心の臣権政治は近代的政治形態である議会政治を導き出せる基盤となり得るものだった。

 そして壬辰倭乱が党派争いによる国力の弱化から生じたとの見方も、当時の朝鮮社会と国際情勢を正確に読み取っていない解釈上の間違いといえよう。なぜなら、宣祖の政治的安定のための努力により、当時の社会は明宗時代に比べて比較的安定した状況だったからだ。そのため、壬辰倭乱の根本原因は朝鮮国内で探すよりも、日本の国内状況で探すほうが正しいと思われる。

 当時の日本は、いわゆる戦国時代が終わり、統一された時期にあったが、それまで地方では諸侯勢力の力が強く働いていた。統一を成した豊臣秀吉は、諸侯勢力を危険な存在と見なし、そのため外部との戦争を通じて彼らの力を縮小させ、一方では戦国時代で獲得した戦術的能力を外部に向けさせて、民心を一つに束ねようとする意図を露骨にしていた。そこで画策したのが、中国大陸進出を名分とした朝鮮侵略であった。

そういうわけで、壬辰倭乱は、本質的に朝鮮の国防力と関係なく、日本国内の政治的な目的によっ・て発生したものだと見ることができる。ただ、朝鮮が日本の侵略意図を正確につかめなかったことは、当時の朝鮮朝廷の限界を現したものだった。

P191〜197
四、壬辰倭乱と朝鮮社会の変動

戦争勃発以前
・・・
 壬辰倭乱が起こるまでの朝鮮は約200年間、部分的な外侵を除いては、ほとんど戦争のなかった国だった。そのため、朝鮮全域は、戦争に対する備えを怠ってきた。当時、朝鮮では、明宗時代の外戚勢力が権力を乱用してほしいままにしていた虐政の残渣を整理し、朋党政治の基盤をととのえている最中だった。しかし、朋党政治はさまざまな施行錯誤を経ていたが定着するまでにはなっておらず、勢力争いだけに走っていた。そのため大部分の両班階層は朋党政治に対する参加だけを模索しており、国防に対しては関心がまったく無い状態だった。しかし、倭国の状況は違った。

 当時、日本は、豊臣政権が長く続いた戦国時代を終わらせ、国を統一した時だった。15世紀後半に商人を先頭にした西洋勢力が徐々に日本に押し寄せ、その結果、日本では新興産業都市が発達し、従来の封建的支配形態が脅かされる状況へと展開していた。産業都市を基盤にした新興勢力が力を育てると、恐れを感じた豊臣秀吉は新興勢力の力を外に向け、国民を一つに団結させるさせるための方策を模索した。そこで得た結論が外国との戦争だった。言わば、戦国時代通じて得た戦争遂行能力を効果的に消費し、新興勢力の力を削減させようという一挙両得の戦略を駆使したのだ。
・・・・
(下線は、引用の際、追記)

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「若者に伝えたい 韓国の歴史 共同の歴史認識に向けて」
李元淳、鄭在貞、徐毅植著 君島和彦、國分麻里、手塚崇訳
(明石書店 2004年出版)

P62.63
1部 韓国の歴史と文化 
2 朝鮮の成立と発展

6.’倭乱’と’胡乱’の国難を克服する

初期の日韓関係
 朝鮮は建国後、日本に対しては交隣政策を掲げ、日本の朝廷や西日本の有力な地方勢力に対して、当時朝鮮海岸に頻繁に侵入して害を与えていた倭寇の根絶を外交的に要求する一方、訪れる日本人に対しては、官職を与えたり、経済的な援助を与えたりした。また、倭寇の本拠地である対馬島を攻撃する積極的な対策を行った(1419)こともあったが、日本との国交の基本は三港を開いて日本人の往来と貿易を許可する平和外交であった。

 このような努力の結果、倭寇は一時的に収まったが、1467年から日本が長期の内乱期に入ると、再び倭寇が朝鮮と中国の海岸を強奪しはじめた。このような情勢の変化を背景にして、三浦倭乱(三浦の乱)が起こり。両国の国交は途絶えてしまった(1510)。

壬辰・丁酉倭乱
 長年の戦乱を収拾して日本の統治権を掌握した豊臣秀吉は、明に侵攻する道を借りるという口実で朝鮮に侵略戦争を起した(1592〜1597)。この戦争が前後7年間にわたる壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)である。この戦争は豊臣秀吉が、国内的には彼に反対する勢力の軍事力を弱化させ政権の安定を図ろうという政治的意図と、対外的には東アジアを支配しようとする野望を持って、’征明仮道’という不当な口実を掲げて朝鮮を侵略した戦争であった。

 日本軍は鳥銃という新しい武器で武装したうえに、長い戦乱によって豊富な戦闘経験を積んだ軍隊であった。戦争初期に日本軍は、西側は平壌まで、東側は豆満江の近くまで侵略した。

朝鮮軍の反撃
 日本軍が占領した地域では、祖国防衛のために立ち上がった義兵と僧兵による抗戦と、再建された朝鮮の官軍と明の援軍による反撃によって、侵略軍はしだいに窮地に負いこまれていった。また。李舜臣が率いる朝鮮水軍は、南海の各地で日本水軍を撃破し、日本本土との海上補給路を遮断した。日が経つにつれて戦争の状況が不利になると、日本軍は講和交渉の結果を待つという名目のもとに漢半島の南海地方に退き、各地に倭城を建てて駐屯した。

 しかし、講和の協議が思い通りにならないと、秀吉は1597年再び戦略戦争を起こした。しかし、朝鮮軍の抗戦、明の援軍の応戦、再び立ち上がった義兵の闘争、そして朝鮮水軍の活躍によって日本軍の配色が濃くなった。日本軍は、その年に豊臣秀吉が死亡すると日本に退去し、朝鮮はついに7年間の国難を克服した。

丁卯・丙子胡乱
(略)

(下線は、引用の際、追記)
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posted by tamatama at 14:39|   朝鮮侵略/壬辰倭乱 2011年07月13日
朝鮮侵略/壬辰倭乱 9
秀吉は、なぜ征明(朝鮮侵略)を考えるようになったか

「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」中野等著(吉川弘文館)を読んだ。この本はこの戦いの全体を把握するのに非常に役立った。本書のプロローグに、秀吉がなぜこの戦いをはじめるに至ったか、が述べられている。そのプロローグの要約を下にを示す。ここから「秀吉の征明動機」をまとめた。そして、先に「朝鮮侵略/壬辰倭乱 8(なぜ、秀吉は朝鮮侵略を決定したか)」であげたものと比較した。

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(中野等著「文禄・慶長の役」プロローグのまとめ)

国際秩序の企て プロローグ
1)戦国期には採掘法や精錬の技術が飛躍的に発達し、当時の日本は世界でも有数の銀産出国になっている。
2)15世紀半ば、すでに中国の財政や経済は銀なくして循環しない段階に達していた。1530年代以降に流通を開始する大量の日本銀が交易を活性化させ、東ユーラシア交易を支えた。
3)16世紀終盤に至るとマニラを経由して中国に入ってくるポトシ産の銀によって、東ユーラシアにおける日本産銀の比重は相対的に軽減されるものの、このころ明の海禁政策も緩和されて国家間の朝貢貿易システムは弱体化し、民間勢力による私貿易が盛んになってゆく。倭寇を忌避した明朝は日本との直接貿易を厳禁するが、日本の商船は東南アジアの各地で中国との出会い交易をすすめ、この海域に多くの日本人町や中国人町が形成された。

4)こうした時代に秀吉は登場する。九州平定を終えた段階で秀吉は毛利領内の石見銀山に運上を課した。東ユーラシア交易は、日本産銀が支えているという「自負」があったかもしれない。「軍事力」で自らの権力を拡大していくが、その背景には銀に支えられた「経済力」があったことを忘れてはならない。
5)秀吉は、「国内統一」を終えて、やおら「海外派兵」に乗り出したわけではない。統一の過程でみずからを朝廷権力のなかに位置づけた秀吉は、朝権の及ぶ範囲を拡充するという方途をとって政権のフロンティアを拡大してく。具体的には、服属させようとする周辺勢力に対し、朝廷への出仕を要求することになる。豊臣政権は、九州平定ののち対馬宗氏を通じて朝鮮王朝に、薩摩島津氏を介して琉球王国に、京都への出仕を突きつけている。そこには、近代国家のような形での国境線(バウンダリー)はない。

6)バウンダリーが一次元のラインであるのに対し、フロンティアは二次元のゾーンと定義される。バウンダリーが存在すると言いうるのは、国家領土の限界が明確かつ正確に画されている状況である。一方、フロンティが存在するのは、領土の境界がはっきりとは規定されず、国家の支配力は中心からの距離に比例して少しずつ衰退していく。さらにバウンダリーが本質的に「内向き」かつ「求心的」であって、外と内を隔てる機能を持つのに対し、逆に「フロンティア」は「外向き」かつ「遠心的」な本質をもち、内と外とを結ぶ役割をもつ。(ブルース バートン/『日本の「境界」』)秀吉によるフロンティアの拡大も世界に唯一であるべき「普遍国家」が次第に周辺勢力を併呑していく過程にしか他ならず、この論理の前では国内の戦国大名も外国の王も、いわば「化外(けがい)」として同質の存在として見なされるのである。

7)ところで、フロンティアの拡大を目指した出仕要求は、この場合「徳」によるのではなく「武」によっている。権力構造の求心性を保つため、豊臣政権は朝廷の官位体系に依拠するが、その本質はあくまで主従制の原理による武家政権である。したがって、武力に勝る者が劣る者を服属させるという運動の「拡大再生産」こそが、フロンティア拡大の内実でもあった。海外の諸勢力に対する服属要求も、あくまで「武」を前提にしたものであった。
8)秀吉は、「日本弓箭(きゅうせん:ゆみや)きびしき国」「大明長袖国(たいみんちょうしゅうのくに、だいみん・・・)と日本を明国を対比的に述べている。これは「武を」をもって家職とする「弓箭きびしき国」武家の国が、徳知主義をもってする「文」による官僚制国家を侮蔑的に見下した言説に他ならない。

9)「世界」の既成秩序を再編し、みずからが「普遍国家」たろうとすれば、先行する明帝国を打倒するほかに途はない。二つの普遍国家が並び立つことはありえないからである。こうして、秀吉の「武」によるフロンティア拡大は不可避的に「征明」に帰結していくことになる。

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(秀吉の征明動機)
上から、ポイントを抜き出すと下のようになる。

@朝廷権力の拡大:国内統一の過程は、朝権の拡大という方途をとっての政権のフロンティアの拡大であった。
A海外へのフフロンティア拡大:秀吉は日本国内のフロンティアを拡大させ、その後海外へフロンティアを拡大させた。
B「普遍国家」の実現:秀吉は「国内統一」後、同じように「海外派兵」をおこなった。そこには、「普遍国家」の実現という意味で、断絶はなかった。
C主従制の原理による武家政権:秀吉は、フロンティアの拡大を「武」によって行った。
D不可避であった明帝国の打倒:みずからが「普遍国家」たろうとした「武」によるフロンティア拡大は不可避的に「征明」に帰結することとなった。

なぜ秀吉は,征明を考えるにいたったかについてまとめると
「秀吉は、朝権の拡大という方途をとって政権のフロンティアを拡大させ、国内統一を成し遂げた。みずからが「普遍国家」たろうとした「武」によるフロンティア拡大は不可避的に「征明」という帰結になった。」
ということになる。・・・(A)

(征明動機について比較)
先に、「朝鮮侵略/壬辰倭乱 8(なぜ、秀吉は朝鮮侵略を決定したか)」でまとめたものは下のとおりである。
「秀吉は、全国平定後、「戦時体制」から「平時体制」への移行のためのビジョンを持ってなかったために、巨大で強固な「戦時体制」の自律的な動きに従わざる得ず、「新たな戦時」=征明(朝鮮侵略)へと突き進んだ。」・・・(B)

両者で、異なるのは秀吉が拡大へ突き進んだ動機である。(A)では「みずからが「普遍国家」たろうとした」といい、(B)では「「戦時体制」の自律的な動きに従わざるを得なかった」という。(B)の「「戦時体制」の自律的な動き」とは、具体的には「戦時体制」(武将、兵士、経済人を含むシステムで、彼らがそこから利益(生活の糧)を得ている)が、現状を維持しさらに拡大しようとする動き、のことである。秀吉は、その「戦時体制」のトップにおり、絶大な指揮権を持つと同時に、そこからもっとも大きな利益を得ている。(A)でいう「みずからが「普遍国家」たろうとする」ということは、自分の持っている国家意識を絶対的なものと考え、それを実現するべく行動し、自分の国家意識と異なったものは排除していくということであろうか。

(秀吉に、「普遍国家」意識はなかった)
結論から言うと、秀吉には「みずからが「普遍国家」たろう」とする考えはなかったと思う。そもそも、空想的な「世界覇者」意識はあったかもしれないが、明確な国家意識(国家の理念)などもっていなかったように思う。秀吉の第一の関心事は「みずから(豊臣家)の安泰と繁栄の継続」であり、そのために、それを妨げる他者(競争相手の武将、他の戦国大名)を排除してきたのであり、それは九州平定でほぼ成し遂げられた。秀吉の意識にある国家は「六十余州の天下」であって、豊臣家の安泰のためには、国内六十余州で十分であったのである。それにもかかわらず、海外派兵まで行うことになったのは、「みずからが「普遍国家」たろうとした」といった「観念的」なものが動機ではなく、みずからが属し、みずからを支えてきた「戦時体制」がその維持・拡大を要求してきたことに対し、明確なNO(平時体制への移行ビジョン)を打ち出せず、「新たな戦時」=征明にいたったと思うのだが、どうであろうか。

「普遍国家」という言葉は初めて知った。意味するところを調べてもよく分からなかった。私なりに、「地域国家、民族国家の上位概念としての国家」だと考えた。
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posted by tamatama at 09:01|   朝鮮侵略/壬辰倭乱 2011年07月12日
朝鮮侵略/壬辰倭乱 8
なぜ、秀吉は朝鮮侵略を決定したか

(戦時体制の自律的な動き)
1)秀吉が、持っていたものは天下平定のための「戦時体制」の仕組み、命令系統、権力であって、それは九州平定に25万人を即座に動員できるような巨大なものだった。これは当時の日本の人口、1000万人の2.5%にあたるほどのものだった。

秀吉を頂点とする戦時体制機構には、多くの武将、兵士、経済人が関わっており、彼らは天下平定の軍事的行動にかかわることによって利益を得ることができた。九州平定までは、その戦時体制機構は有効に働き、全員利益を得られた。しかし、全国統一のあと、戦時体制機構は、彼らに利益を与えられる「戦時」を失ってしまい、彼らは不安を抱えてしまったし、戦時体制機構は不安定なものになってしまいそうだった。

この戦時においてしか有効でない機構は、天下平定の過程で徐々に作り上げられてきたもので、秀吉は本能寺の変以降10年でさらに強化した。この機構は巨大で、強固なものであったため、平時になってすぐに、解体し組みなおすことが出来るようなものではなかった。仕組みそのものが、秀吉の手を離れて自律的に動くようなものにまでなっており、秀吉の判断そのものもその機構のありよう、その巨大なシステムの「ダイナミズム」に縛られていた。

(平時体制のビジョン)
2)秀吉は、戦時体制から平時体制に移るべきときに持つべき「ビジョン」、「理念」と、それを実現するための「プロセス」について、明確なものを持っていなかった。

九州平定のあと、日本全体が戦いの無い世の中になり、そしてそれが継続されることを多くの人は期待していた。そうなるべきであった。秀吉が豊臣家の安泰と継続を望むならば、戦時体制から平時体制に移るべく、知恵を働かせるべきであった。「戦いのない平和な社会の継続」と、「豊臣家の未来永劫の繁栄」とが両立できる「平時体制つくり」を秀吉ならば出来たはずだ。

秀吉が「豊臣家の安泰」を出発点にして、平時体制の1)理念の構築、2)その理念を実現する体制の構築、3)その体制を作るためのプロセス案つくり、4)実現するための人材の登用、配置、さらには将来に向けての育成、5)経済基盤の維持、拡大6)強権維持のための軍事力保持などを考えたとしても、それはその時代での「戦いのない平和な社会の継続」実現へとむかっていたはずだ。

(秀吉の生きた時代からくる制約と、秀吉個人の資質)
秀吉は、「平時体制移行ビジョン」を考えることが出来なかった。その理由として以下のものが考えられる。
@本能寺の変以降、全国平定の軍事行動に忙殺され、考える余裕と時間がなかった。
A秀吉の上昇意識、前向き志向が強くて、立ち止まって一服考えるということが無かった。
B戦いに明け暮れた人生であったため、即時の問題解決能力は磨かれたが、もう少し広い目で見る能力が磨かれなかった。
Cもともと、日本の全国の民(一般農民)を幸せにすると言う観点が乏しかった。帝王学を学ぶ環境に無かったし、その後も時間と余裕が無かった。信長の「全員皆殺し」を見て、見習ってきたためなどで、民を見る目が限定されてしまった。
などなど、秀吉の生きた時代からくる制約と、秀吉個人の資質(上昇志向、権力志向)に帰せられる問題とがあろう。

(なぜ、秀吉は朝鮮侵略を決定したか)
秀吉は、全国平定後、「戦時体制」から「平時体制」への移行のためのビジョンを持ってなかったために、巨大で強固な「戦時体制」の自律的な動きに従わざる得ず、「新たな戦時」=征明(朝鮮侵略)へと突き進んだ。

(戦時体制から平時体制への移行についての補足)
1)秀吉の戦時体制機構は、ほとんど兵糧攻めであった「北条攻め」、25万という数の威圧感で勝負をした「九州平定」のころから、もう軍隊が激突する戦いは終わっており、その役割を終えつつあった。秀吉は、この2つとも物見遊山気分(ゆっくりした行軍、家族同伴、茶会開催など)で参加している。秀吉はこのとき、将来の平時体制への移行プランを考えておくべきだった。

2)「文禄・慶長の役」、「関が原の戦い」、「大阪冬の陣、夏の陣」は、戦国時代を生き抜いてきた多くの武将、兵士が死んでいったという意味で、巨大な戦時体制機構が縮小していくプロセスであった。家康は、戦は戦として参加していたが、その後の「文治政治」についてプランを考えていたかもしれない。
3)「北条攻め」から「大阪夏の陣」にいたる長いスパンに目をやって、「戦時体制から平時体制への移行」を考えると、何か見えてくるものがあるかもしれない。
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posted by tamatama at 10:16|   朝鮮侵略/壬辰倭乱 2011年07月10日
朝鮮侵略/壬辰倭乱 7
秀吉の国際感覚

朝鮮侵略を決定した秀吉の持っていた国際感覚はどんなものだったのか探るために、秀吉の生まれた時代よりずっと前からの日本の対外交流の歴史をたどってみた。明、朝鮮、琉球も視野にいれた。

(年表を見ての感想程度のこと)
1)日明貿易:明への朝貢国になったが、経済的利益が大きかった。明を大国として素直に見ていた。(秀吉の時代も大国「明」の一般的認識があったと思う。)
2)倭寇  :明南部、朝鮮、琉球を我が物顔に航海する倭寇を見て、今より東シナ海は狭い感覚だったのだろう。(秀吉は、倭寇の話を、武力で経済的利益を得ることは外国で当たり前にできるのだと、思ったかもしれない。)

3)日朝貿易:対馬宗氏が生きていくためにどれだけ苦労をしてきたかが分かる。偽の使節を仕立て上げることもいとわない「知恵」をつけざるを得なかった。(秀吉をも、恐れないしたたかさは、秀吉の上を行く。)
4)琉球交易:東アジアの広い範囲で、友好的な交易関係を長く続けてきた。積極性、国際感覚は当時、抜きん出ていたようにも思える。(秀吉が、その利益を自分のものにしたいと思ったのも無理はない。善隣友好関係でなく服属関係にしか目を向けなかった点が、武力一辺倒で統一を勝ち取った秀吉の弱点。)

5)キリスト教:日本の「国家意識(神国意識)」を育んだ。宣教師情報は世界の窓であった。(一向衆との激しい戦いを経験した秀吉は、かなり冷徹にキリスト教布教を見ていたのではないだろうか。)
6)鉄砲伝来 :ヨーロッパの技術の高さを当時の人は思っただろう。しかし、それを1年でものにした日本も、基本的な技術力はあった。特に、鍛冶。

(秀吉の国際感覚はこんなものかな)
1)地理的な広がりは、日本から「唐、天竺」、ヨーロッパまでの意識はあったと思う。どんな国なのかは、東アジアについては堺の商人からかなり詳しく、ヨーロッパについては宣教師からフィルターをかけられた情報であっても、まあまあ詳しく知っていたのではないだろうか。背景には、室町時代からの日明貿易、倭寇の情報、日朝貿易、琉球交易の繁栄などの情報があったと思う。日本のトップなので、情報量は、庶民レベルとは比べ物にならないくらい多かったであろう。
2)秀吉の興味は、交易をして利するところがあるかどうかにあった思うが、それについては私などよりも、ずっと真剣に考え、情報入手をしていたと思う。

3)対馬は日本の領国、琉球は日本の属国で挨拶に来るのが当然の国、朝鮮は日本の周辺国で力の弱い国(薩摩の延長くらいの感じ)、明は大国ではあるが、自分の平定した日本と同じレベル(位置づけ)の国で武力で服属させることができる国、という感じをもっていたのではないだろうか。
4)これまで、秀吉は国際感覚オンチと思っていたのだが、世界の範囲、各国の経済情報については的確な感覚を持っていたのではないだろうか。ただし、成功した天下統一者としての「上から目線」で見たときに、他国への理解が偏ってしまったように思う。

5)信長時代から続く武力での日本平定の道のりが長かっただけに、平定した後はかなりの自信と自負をもったことだろう。上昇意識の真っ只中にある秀吉が、海賊の倭寇に悩まされ続けている明にとってかわることができると考えたのも無理からぬことと思う。

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日本の対外交流史 (講談社 「日本全史」から、抜書きし、編集した。)

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1401(応永8) 年5月13日 義満、明へ使節派遣 朝貢貿易で国交正式回復
            (遣明船 入明年 1401年(応永8年) 祖阿   幕府)

(遣明船)
1402(応永9)年9月5日  義満、明の国書をうける 「璽(なんじ)日本国王源道義」に屈辱的との非難集中
            (1403年(応永10年) 堅中密 幕府)
            (1404年(応永11年)      幕府)
            (1405年(応永12年) 明室楚亮 幕府)
            (1407年(応永14年) 源通賢  幕府) 
1407(応永14)年8月5日  明使節、義満と会見、日明貿易は「宝の山」 勘合貿易で幕府の経済基盤確立
1408(応永15)年6月22日 南蛮船、小浜に来航 北陸の港町に(北陸の港町も東アジア交易圏に)
            (1408年(応永15年) 昌宣   幕府)
            (1410年(応永17年) 堅中圭密 幕府)
1411(応永18)年9月9日  義持、明の外交使節の入洛許さず 国交中断で幕府財政は?
1416(応永23)年      今帰仁(なきじん)城が陥落、琉球で山北国滅び中山国による統一すすむ
1419(応永26) 年6月26日 朝鮮軍、対馬を急襲 倭寇への報復 応永の外寇(日本斬首114人、朝鮮戦死者百数十人)

(倭寇)
1420(応永27)年4月21日 宋希mが来日 三毛作に驚嘆しつつ日朝関係の修復はかる
1426(応永33)年      「三浦(さんぽ)の制」交易は3港で (1510年の三浦の乱まで日朝貿易全盛)
1429(永享1)年      尚巴志、琉球を統一 海外貿易を独占し黄金時代へ(明、日本、東南アジアの貿易中継基地)

(進貢船)
1432(永享4)年8月17日 義教、日明貿易復活求め通行船派遣 経済効果もとめ大名・大社寺も参加(この後10年一貢で計10回の遣明船)
            (1433年(永享5年) 龍室道淵 幕府・相国寺・山名氏・大名寺社十三家・三十三間堂)
1434(永享6)年9月3日  幕府主導の遣明船最後の船出 貿易は大名・商人の手に
            (1435年(永享7年) 恕中中誓 幕府・相国寺・大乗院・山名氏・三十三間堂)
1443(嘉吉3)年      宗氏と朝鮮 嘉吉条約 貿易船は年50隻に(平和外交ピーク)
1453(享徳2)年3月30日 史上最大の遣明船団 9隻1200人が五島を出帆
            (1453年(享徳2年) 東洋允澎 天竜寺・伊勢法楽舎・聖福寺・大友氏・大内氏・大和多武峯)
1467(応仁1)        応仁の乱勃発
            (1468年(応仁2年) 天與清啓 幕府・細川氏・大内氏)
1469(文明1)年8月13日 帰国の遣明船 瀬戸内の兵火避け 土佐に投錨、堺へ向かう(以後、兵庫湊にかわり堺が隆盛に)
1470(文明2)年12月   「海東諸国記」完成、朝鮮の申叔舟,善隣外交の規範示す

(「海東諸国記」の「海東諸国全図」)
1477(文明9) 年      応仁の乱終結
            (1477年(文明9年) 笠芳妙茂 幕府・相国寺勝鬘院船)
            (1484年(文明16年) 子璞周璋 幕府・朝廷)
            (1495年(明応4年) 尭夫壽黄 幕府・細川氏)
1500(明応9)年      太陽王尚真、琉球諸島を統一 海洋王国に黄金時代!

(近世琉球の那覇港の賑わいを描いた「琉球貿易図屏風」)

1510(永正7)年4月4日  在留邦人が三浦で蜂起 日朝貿易、断絶の危機
            (1511年(永正8年) 了庵圭吾 大内氏 )
            (1511年(永正8年) 宋素卿  細川氏)
1512(永正9)年9月    朝鮮・対馬宗氏 壬申約条締結 日朝関係2年ぶりに正常化
1523(大永3)年4月    遣明船勘合符争奪戦、海外にまで 大内・細川が寧波(にんぽー)で激突
            (1523年(大永3年) 宗設謙道 大内氏)
            (1523年(大永3年) 鶯岡瑞佐 細川氏)
            (1540年(天文9年) 湖心碩鼎 大内氏)
1543(天文12)年8月25日 鉄砲、種子島に伝来 戦術を一変させた新兵器(ポルトガル船)
1547(天文16)年2月21日 大内義隆、遣明船の法度を制定 最後の使節が山口を出発
1549(天文18)年7月3日  日本にキリスト教伝わる ザビエル、鹿児島に上陸
            (1549年(天文18年) 策彦周良 大内氏)
1550(天文19)年8月    洗礼者は100人に ザビエル、平戸で布教(領主松浦孝信 ポルトガル貿易に期待)
1550(天文19)年6月9日  最後の遣明使が帰国 1世紀半の歴史に幕
1552(天文21)年     大陸沿岸に倭寇が猛威 密貿易の主力は中国人(室町幕府の衰退で活発化、明の海禁政策による弾圧で海賊化)
1555(弘治1)年5月    朝鮮半島沿岸に脅威!倭寇の70余隻 達梁浦を襲撃(頭目王直 東シナ海の倭寇の猛威ピークに)

(倭寇)

(倭寇の侵略 出典:Yahoo!百科事典 日本大百科全書、ニッポニカ・プラス(小学館))
1557(弘冶3)年11月   倭寇の頭目 王直 ついに捕縛(ここ3年200回以上も中国大陸、朝鮮の沿岸襲撃)
1560(永禄3)年1月    義輝、宣教師ビレラに京都での布教を許可 ザビエル以来の宿願
1562(永禄5)年6月15日 ポルトガル船、横瀬浦(長崎県西海町)に入港 平戸にかわる貿易基地へ

(長崎港に停泊する南蛮船(ポルトガル船))
1568(永禄11)年9月26日 信長、足利義昭を奉じて入京 全国統一へ確かな足どり
1569(永禄12)年4月8日  信長、宣教師フロイスに京都での布教を許可
1571(元亀2)年9月12日 信長、比叡山焼き討ち  聖俗4000人を殺害
1574(天正2)年9月29日 長島一向一揆無惨!2万余の男女、焼き殺される
1579(天正7)年7月2日  イエズス会総長代理バリニャーニ来日 布教方針を改革(日本をインド教区から分離、下・豊後・都の3教区設置)
1580(天正8) 年      安土にセミナリヨ 和洋の教育で聖職者を養成(信長許可、援助)
1582(天正10)年1月26日 天正少年遣欧使節 ポルトガル船で長崎を出帆

1582(天正10)年6月2日  本能寺の変
1584(天正12)年5月1日  秀吉、比叡山延暦寺の再興を許可
1587(天正15)年3月1日  秀吉、九州征圧に出馬 兵力25万人を動員
1587(天正15)年6月19日 キリシタン禁令発布 宣教師に帰国命令 貿易も絡み不徹底
1588(天正16)年7月8日  刀狩令・海賊停止令が出る 武士は武具、農民は農具を(秀吉、外交交易の独占図る)
1589(天正17)年8月28日 宗義智、朝鮮滞在2ヶ月 国王に謁見し通信使派遣を要請(秀吉の指示)
1590(天正18)年11月7日 朝鮮通信使、秀吉と会見 帰国報告で兵禍を予見
1591(天正19)年閏1月8日 天正遣欧使節、逆風の中帰国 聚楽第で秀吉に謁見(インド副王使節として)
1591(天正19)年6月    朝鮮、宗義智交渉するも明との仲介拒む
1591(天正19)年10月10日名護屋城築城開始、「唐入り」本営に
1591(天正19)年8月21日 身分統制令発布、秀吉、明出兵前に兵農分離を徹底(「唐入り」目前に、武家奉公人や年貢を確保図る)

1592(文禄1) 年4月13日 文禄の役はじまる 小西・宗の第1軍、釜山に上陸
1592(文禄1) 年      秀吉、異国渡航の許可状8町人に 朱印船貿易始まる(コーチ・トンキン・安南、カンボジア、シャム、ルソン)

(秀吉が愛用した「三国地図扇面」)
1593(文禄2)年11月29日朝鮮の役は「やきもの戦争」、秀吉、職人の捕虜を要求
1593(文禄3)年11月5日 高山国に入貢要求、原田孫七郎 秀吉の使者となる
1594(文禄4)年9月14日 太閤検地、いよいよ本格化 島津義弘領手始めに
1596(慶長1)年12月19日キリシタン弾圧で初の殉教者 長崎の丘に26の十字架(スペインの領土的野心を疑う)
1596(慶長1)年9月2日  明帝の国書に怒り、秀吉、再出兵を決意

1597(慶長2)年2月21日 日本軍、再び朝鮮へ 慶長の役の陣立決まる
1597(慶長2)年7月24日 大阪城に象来る ルソン提督使節プレゼント (スペイン人船長ファハルド、謁見)
1598(慶長3)年8月18日 秀吉、死去
1600(慶長5)年2月23日 朝鮮との国交修復の第一歩 小西行長らが捕虜160名を送還
1600(慶長5)年3月16日 オランダ船リーフデ号、豊後に漂着 ウィリアム・アダムズら救助される


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遣明船(Wikiより:年表に記入)
17次 54隻

(遣明船)

入明年        正使   船主
1407年(応永14年) 源通賢  幕府
1408年(応永15年) 昌宣   幕府
1410年(応永17年) 堅中圭密 幕府
1433年(永享5年) 龍室道淵 幕府・相国寺・山名氏・大名寺社十三家・三十三間堂
1435年(永享7年) 恕中中誓 幕府・相国寺・大乗院・山名氏・三十三間堂
1453年(享徳2年) 東洋允澎 天竜寺・伊勢法楽舎・聖福寺・大友氏・大内氏・大和多武峯
1468年(応仁2年) 天與清啓 幕府・細川氏・大内氏
1477年(文明9年) 笠芳妙茂 幕府・相国寺勝鬘院船
1484年(文明16年) 子璞周璋 幕府・朝廷
1495年(明応4年) 尭夫壽黄 幕府・細川氏
1511年(永正8年) 了庵圭吾 大内氏
         宋素卿  細川氏
1523年(大永3年) 宗設謙道 大内氏
         鶯岡瑞佐 細川氏
1540年(天文9年) 湖心碩鼎 大内氏
1549年(天文18年) 策彦周良 大内氏
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